第93話 お供え物
「父さん、お酒好きだったな」
父の墓の前で、兄と弟が手を合わせた。墓には酒と酢昆布がお供えしてある。二人はまだ学生で、物心ついた時には母はもうこの世にいなかった。そして今、男手一つで育ててくれた父をも亡くし、兄弟は親戚の家に引き取られることになっていた。
「よく酢昆布食べながら、お酒をちびちび飲んでたね」
「俺はお酒の匂いがちょっと嫌だったな」
「…実は僕も」
「酢昆布も何がおいしいのかわかんないし」
「もらったことあったけど、二人とも吐き出しちゃったよね」
「そんなこともあったなあ」
二人は少し笑って、亡き父はこのお供え物を喜んでくれているだろうかと思いを馳せた。溜息のような悲し気な風が兄弟の間を通り抜ける。二人は身を震わせると、片付けをして帰っていった。
それから毎年、お盆になると二人は酒と酢昆布を持って墓詣りをした。それは二人が学校を卒業し、就職し、結婚しても決して忘れられることなく続けられた。離れ離れに暮らしていても、その時だけは必ず二人一緒に墓所を訪れるのだった。
歳月が過ぎ去り、兄弟は亡き父と同じぐらいの年齢になった。偶然街で出会った二人は、居酒屋で近況などを語り合っていた。
「お前も父さんみたいな酒飲みになったのか」
ちびちびと酒を飲む弟を見て兄が言った。
「まさか。本当は飲みたくないけれど、なんだか、ちょっと、ね」
兄は弟の言いたいことをすぐに汲んで、深く頷いた。
「ああ、分かるよ。飲まなきゃなんとやらだ」
「そうそう」
二人とも疲れた顔をしていたが、思い出話に花が咲き始めると、徐々に元気を取り戻していった。そんな時、兄がおもむろにカバンから酢昆布を取り出して、弟に差し出した。
「こないだ父さんの知り合いにもらったんだよ」
「へえ?」
「家の近くに酢昆布の工場があったの覚えてるか? いつも酸っぱい匂いがしてさ。そこの社長さんだよ。義理堅い人で、父さんに世話になったことがあるらしくってさ、余り物の酢昆布をくれてたんだと」
弟は聞きながら酢昆布を手に取って、しばらく眺めると、口に放り込んだ。
「うえ。やっぱり苦手だな」
顔を顰める弟を見て、兄は微笑んだ。
「俺もさ。けどいっぱいもらったものだから、ちょっとずつ食べてる。慣れるとまあ、腹の足しにはなるよ。父さんも別に好きじゃなかったらしい」
「そうなの?」
弟は意外そうな声を上げた。
「その社長さんが言ってたけど、昔、父さんに、そんなにいっぱい食べるなんて余程酢昆布が好きなんだなって聞いたことがあるんだってさ。その時、父さんは遠慮がちに、お金の節約の為で、いつもお世話になってごめんって話してたらしい」
「…僕らの養育費も大変だったろうね。自分が親になった今だと身に染みるよ」
二人はちょっとしんみりとして、黙ってコップを傾け続けた。
軽く酔いが回ると、二人は居酒屋を出てぶらぶらと街を歩いた。足は自然と、昔、父と一緒に暮らしていた家の方へと向いていた。朧な記憶を頼りに家のあった場所に辿り着いたが、残念ながらそこはもう空き地になっていた。
消沈した二人は近くにあった喫茶店に入って酔いを醒ますことにした。
もう空の上には月がぽっかりと浮かんでいる。店内に他の客はおらず、落ち着いた雰囲気の中、カウンターで老店主が一人静かにたたずんでいた。
「いらっしゃいませ。…あの、もしかして」
喫茶店の店主は二人の顔を見て少し目を見開くと、父の名前を口にした。二人が驚いて聞き返すと、父は時々この喫茶店を訪れていたのだという。
「彼の事は学生の頃から知っています。奥さんともよく一緒にいらしていたんですよ」
二人は初めて聞く話に目を丸くした。そんな二人に店主はコーヒーゼリーをご馳走してくれた。
「彼はこれが大好きだったんですよ。奥さんが亡くなられてからは滅多にいらっしゃらなかったんですが、時折コーヒーゼリーを食べに、ふらっと来られていました。何もおっしゃらなかったですが、そんな時は、何か辛いことがあったようでしたね」
二人は昔話を聞きながら、コーヒーゼリーを口に運んだ。冷たくて、ほろ苦くて、ほんのりと甘かった。
次のお盆。二人は酒でも酢昆布でもなく、コーヒーゼリーを墓前に供えた。手を合わせる二人の間を、爽やかな風が吹き抜けて、天高くへと舞い上がっていった。