第917話 マリィ・オネットの幸せ
彼女との出会いは大陸を横断する汽車の客室。
他の乗客はいない。ふたりだけの部屋。
窓の外には煙突から吐き出された真っ黒な煙がどろどろと流れ続けていた。
ガタゴトと揺られながら、偶然、同室になったぼくらは軽く挨拶を交わす。
ぼくを見返す仮面みたいな顔の、唇だけが動いて、
「私はマリィ。マリィ・オネット」
上品な微笑。古ぼけたドレスは、色褪せた絵画の登場人物のよう。
硝子玉の瞳に映るぼくは、そんな彼女に見惚れていた。
まるでお人形。お金持ちの屋根裏部屋に何百年も放置されて、忘れ去られたアンティークドール。きちんと手入れをしてあげたら、すぐにでも素晴らしい輝きを取り戻す。ぼくは彼女からそんなふうな印象を受けた。
行き先を尋ねると、彼女は東を目指しているのだと言った。目的地は太陽。ならば、昼を過ぎれば西を目指すのかと聞くと、その通りだと彼女は答えた。
一方で、ぼくはどこにも向かってはいなかった。
近づくのではなく、離れるのがぼくの目的。
なぜなら、ぼくは逃亡者だから。
恋人を殺してしまって、警察に追われているのだ。
「マリィ。お願いがあるのだけれど」
太陽が高く昇った頃に、ぼくはこう切り出した。
彼女は窓の外に視線を投げかけたままで、
「なあに?」
「食堂車に行って、パンと飲み物をもらってきてくれないか」
汽車に追っ手が乗り込んでいるかも。もしくは、手配書が出回っていないとも限らない。できるだけ人目につきたくない。けれど、空腹は耐え難いぐらいになっていて、胃がぐうぐうと情けない泣き声をあげていた。
窓から目を離した彼女は、垂れ落ちた前髪の奥にある無機質な眼差しをこちらに向けて、
「それは頼み事?」
「まあ。そうなるね。長旅ですこし疲れてしまっているみたいだ」
と、ぼくはさりげなさを装いながら、足をさすって痛めたふりをする。
彼女はずっと浮かべっぱなしの微笑のままで、
「命令して」
「命令?」
思いがけない言葉。困惑するぼくのことなどおかまいなしに、彼女はこんなふうに言った。
「私、曖昧なことはわからないの。だから、はっきり命令して」
沈黙を腹の虫が埋める。冗談に聞こえない冗談だ。ぼくは反応に迷ったが、おずおずと、
「……食堂車でパンと飲み物をもらってこい」
「わかった」
すぐにぴしりと立ち上がった彼女は、客室から出ていって、しばらくするとパンと飲み物を手に戻ってきた。
「ありがとう」
「お礼を言うなんて変な人ね」
どちらが変なんだか、と、ぼくは心のなかで思った。
窓枠にコップを置くと、汽車の車輪が不意に跳ねた。こぼれそうになった飲み物を慌てて支える。ぼくが注意深く食事をとっているあいだ、彼女は窓の外の真っ黒な煙を透かして雲の行方を眺めていた。
石膏みたいな横顔。ぼくは彼女という人に興味を惹かれて、
「軍隊にでもいたの?」
とてもそうには見えないが、他に気の利いた質問は浮かばなかった。
「どうして」まばたきひとつしない彼女。ランプの光につやめく睫毛。
「だって、命令しろだなんて言うから」
「説明したでしょ。私、わからないのよ」
と、そのとき、甲高い汽笛の音と共にガタンと客室が傾いた。
つんのめったぼくの顔から眼鏡が落っこちる。途端に視界がばらばらになった。メガネがないと、ぼくの視力は犬よりも低い。両手を伸ばして床を探すが、指先に触れたのは隅っこでまるまった埃だけ。
「マリィ。ぼくの眼鏡どこにいった?」
「そこ」ぼんやりとしか見えないが、彼女がどこかを指差している。
「取ってくれないか」
お願いすると、視線を感じた。なにかを待っている気配。
「……ぼくの眼鏡を拾え」
命令すると、彼女は屈んで、椅子の下からぼくの眼鏡を拾いあげた。
「……渡せ」
広げた手のひらに、眼鏡が置かれる。
「ありがとう」
「お礼は必要ないのよ」
まったくもって変わってる。
知り合って間もない、ぼくなんかに命令されて、それを従順に聞くだなんて。
おせっかいとはわかっていたが、つい忠告をしてしまう。
「変な遊びはやめたほうがいい」
「私になにかをやめさせたいなら命令して」
「そういうの、よくないよ。ぼくだったからいいけれど、変な人が変な命令をしてきたらどうするのさ」
「変な命令ってなに」
「それは……」
ぼくは口ごもって、しばし悩んでから、
「……マリィ。君のドレスのカフスボタンをぼくによこせ」
彼女は一切の躊躇なく、宝石みたいなボタンをもぎ取って、ぼくに差し出した。
「どうぞ」
からかわれてるのだとすれば、ひどく悪趣味だ。
しかし、彼女の瞳はどこまでも純真であった。
とても不思議な気分。
それから、突如として心のなかに嫌な気分が溢れた。
かつてのぼくも、彼女のように命令ばかりを聞いていた。
ぼくは逃亡者。恋人を殺した。ぼくの恋人は並はずれに強い支配欲を持った人だった。
でも、それが嫌で殺したんじゃない。
束縛され、命令されることは辛かったが、それでもぼくは恋人を愛していた。
追ってきた警官は、束縛から逃れたかったのが動機に違いないとぼくを糾弾したが、そうじゃない。相反するふたつの感情を受け止めようとしたぼくの心に、容量が不足していたが故に、恋人の命を奪う結果になっただけ。
ぼくは愛に破れたのだ。
いまもまた、ぼくはふたつの異なる感情のあいだで揺らいでいる。
ふと考える。
彼女に対して、ぼくの恋人になれ、と命令したらどうなるだろうか。
ぼくは愛に飢えていた。
思わず口にしそうになって、喉につっかえる。頭を振って、呑み込んだ。
「君は、君自身の命令を聞いたほうがいいと思う」
あらためて、言い直す。
「君は、君自身の命令を聞け。そうするんだ」
言ってからぼくは、真面目腐った自分の態度が恥ずかしくなってうなだれた。
笑われるんじゃないだろうかと思ったが、彼女はだまりこくったまま。
視界の端でブーツがこつんと音を立てた。
ドレスのスカートがふわりと移動する。
向かう先は客室の扉じゃなくって、窓のほう。
真っ黒い煙が室内に吹き込んできた。
窓が開けられたのだと理解するまで時間がかかる。
ぼくが顔を上げたときには、彼女は汽車から飛び降りて、風景の彼方へと消え去っていた。
目に染みる煙を振り払いながら窓枠にしがみつく。
けど、外を覗く勇気はなかった。
彼女の華奢な体がばらばらに砕ける悍ましい音が耳の奥でこだまする。
ぼくは、彼女に幸せになってほしかっただけだ。
自由に生きることこそが幸せだと考えたのは、ぼくのエゴだったのか。
それとも、最期の一瞬、彼女は幸せでいられたのだろうか。
いまさらながら後悔がこみ上げる。
エゴを押しつけてでも、彼女が不幸であったとしても、生きていてほしかった。
彼女の意思など無視して、彼女を独占し、かつての恋人がぼくにしたように束縛すればよかった。
汽車が止まる。
駅に到着した。
ぼくは逃げなければならない。
命が尽きるまで逃げ続けなければならない。
追っ手から。亡き恋人から。そして、これからはマリィからも。




