第898話 思考どろぼう
混雑している居酒屋で、偶然出会った男と旧友。
『やあ。ひさしぶりじゃないか』
『大学以来だね。なつかしい』
『せっかくだから、一杯おごるよ』
『じゃあお言葉に甘えようかな』
こんなふうなやりとりをする男は店の奥のテーブル、旧友は入口側のテーブル。ふたりのあいだにはいくつもの席や客たちが挟まっているが、会話は滞りなく進行する。
というのも、ふたりは声を使わずに、テレパシーを使って意思の疎通をしているから。思念を飛ばして、心を伝える方法。
ふたりだけではない。イマドキの人々にとっては、これが普通のコミュニケーション。
『大将。おれと同じ酒を入口の角のテーブルの彼に』
男がキッチンにいる店主に注文すると、テレパシーでの返事。
『へい。ご注文うけたまわりました』
しばらくすると、店員が酒を運んできて、
『お待たせしました』
控え目なテレパシー。
『ありがとう』
それからふたりはいい気分で酒を飲んで、思い出話に花を咲かせたり、お互いの近況を語り合った。
『実は思考金庫を貸す会社を立ち上げたんだ』
男が言うと、旧友は驚き混じりの思念で、
『そうだったのか。最近は思考どろぼうがなにかと話題だからな』
『ああ。物騒な世の中さ。人の口に戸は立てられぬ、って言葉があるが、いまは、人の心に戸は立てられぬ、だ』
『でも、その金庫で戸を立てようって話なんだろ』
『まあな。心に鍵を、ってのがうちの会社のキャッチフレーズ』
『なかなかいいじゃないか。心に響くよ』
思考どろぼうというのは、その名の通り、テレパシーを悪用して、他人の心のなかから機密、アイデア、内緒事や思い出なんかを盗む極悪人。
『ふむ。思考金庫か……』
旧友は思念でつぶやいて、黙って酒の入ったコップを傾けていたが、しばらくすると思わせぶりな思念で、
『こっちは思考警備会社をやってるんだ』
『そうなのか。奇遇だな。ちょうど思考警備員を探していたところだった』
『こんなところで仕事の話をして悪いが、よかったらうちに依頼してくれないか』
旧友が頼むと、男はふたつ返事の思念。
『気にするなよ。むしろありがたい』
昨今、思考警備の需要は高まり続けていて、警備員の供給が追いつかない状況が続いていた。
詳しい契約の話を後日する約束をして、その日は別れる。
正式に依頼がなされると、すぐに思考警備員の思念が派遣されてきた。
いまの世の中、情報こそが真の価値を持つ。
人は誰しも心のなかに物置を持っているもの。
思い出は宝箱にしまって、勉強したことはタンスの引き出しで分類、トラウマは段ボール箱へ、日常はごみ袋、買い物メモはその辺に貼りつけておく。
ぐちゃぐちゃに散らかった心があれば、きれいに整頓された心もある。
そして、鍵付き金庫が置かれた心を持っている人だっている。
金庫人と呼ばれる者たち。思考金庫の会社で貸し出している金庫は、この金庫人の心のなか。
つまり、思考警備員の仕事場は、金庫人の心のなかというわけ。
交代しながら二十四時間体制で常駐する頼もしい思念。やってきた他の思念が悪事を働かないか、油断なく見張ってくれるのだ。
きっちりとしてまじめな仕事ぶりに、会社を運営する男は安心して警備を任せていた。
着実に顧客が増えて、雇っている金庫人の数が足りなくなるうれしい悲鳴。
だが、商売が軌道に乗りはじめた頃、事件が起きた。
『盗まれた!』
金庫人のひとりからの矢のように鋭い思念の知らせ。跳ね起きた男は慌てて状況を確認する。
聞けば、犯人はなんと、思考警備員なのだという。
すぐに思考警察に通報。その後、思考警備会社に連絡を取ろうとするが、窓口になっている中継人とテレパシーがつながらない。
怪しいものを感じて調べると、現実には存在しない架空思考会社だということが判明した。
どうやら、はじめからこれが狙いだったらしい。なんてやつだと男は憤怒の思念を発散させるが、いまさら気づいても遅い。
祈るような思念で、思考警察が犯人を捕まえてくれることを願うしかなかった。
思考警察が思考犯罪の犯人を追う。
通報が迅速だったこともあり、犯人の思念はまだ遠くにはいっていない。
思考の包囲網を敷いて、思念の逃走経路を先回り。一度でも取り逃がしてしまうと、その思念を捕まえるのは非常に困難になる。思考犯罪では犯人確保のスピードがとにかく重要。思念の通り道を思考パトカーが思念のサイレンをうならせながらひた走る。緊急時ということで、他人の心を横断するのもやむなし。ところかまわず逃げ回る犯人の思念を追うにはそうせざるを得ない。
果てのない思考世界での追いかけっこ。
逃走劇は海も空も越えて続けられた。
そうして、あと一歩というところまで追いつめたのだが、思考の裏道を使って隠れる相手に翻弄されて、思考警察は惜しくも犯人の思念を取り逃がしてしまった。
「はあ」
と、溜息をついたのは思考どろぼう。
長い長い思考の回り道をした末に、自分の心に思念が戻ってきた。
額をおさえて、うなだれる。
公園のベンチ。いつの間にか、ずいぶんと陽射しが強くなっている。犯行は早朝だったが、もう昼過ぎだ。
あらかじめ公園に体に置いておいたのが功を奏した。まさかこんなところに思念が逃げ込むとは思っていなかったに違いない。
「危なかった……」
心がひどく疲れていた。
早く家に帰ろうと、犯人が顔を上げたそのとき、
「ちょっとお話よろしいですか」
目の前には警官。同行を求められる。逃げようとしたが、肉体は思念のように軽やかではない。あえなく逮捕されてしまって、警察署へと連行された。
思考犯罪の典型的な幕切れ。
犯人は思念で逃げるのに必死なあまり、肉体をないがしろにする傾向がある。
熟練の警察官はそのあたりをきちんと把握し、思念を泳がせ、肉体を狙うのだ。
罪が確定すると、罰が言い渡される。
それは、思考監獄への思念禁固刑。
心のなかに檻が作られ、罪を償うまでのあいだ、思念がそこに閉じ込められる。
自分の心のなかにしか、自分の心がない。
もっとも残酷で、つらく厳しい刑罰であった。




