第85話 トンネル
長い直線。曲がり角。等間隔の照明。照明の明るさはばらつきがあって、妙に暗い所と明るい所が交互にやってくる。気分が悪くなりそうだ。車の走行音だけがあたりに響き、壁や湾曲した天井を跳ね回って歪な音楽を奏でている。道の先は煙か、霧か、朧に霞んでいるが、輪郭だけははっきりと分かる。
「うわっ!」
俺は思わすハンドルを切って。蛇行しながらもなんとか平衡を保った。
暗い、明るい、暗いと来て、その次にある眩しく照らされた場所で人が道路の真ん中に立っていたのだ。霞の中でふらふらとよろめいている様子は、酔っ払いに間違いない。
「危ないぞ! 馬鹿野郎!」
窓を開けて、後ろに向かって野次を飛ばした。「待て!」という叫び声が追いかけてきたが、待ってなどやるものか。ふざけた奴だ。
長い直線。曲がり角。等間隔の照明。暗い、明るい、暗い、明るい。単調な道行きに飽き飽きし始めた頃、またしても道路を歩く人間にでくわした。衝突は辛うじて避けられたが、非常識さに怒りが込み上げてくる。
眩しい照明の下で二人が前後に並んでぶらぶらと力なく歩いていた。霞に覆われ、影のようにしか見えなかったが、馬鹿な学生かなにかだろう。
「くそっ」
まただ。眩しい霞の中で今度は二人仲良く手を繋いでいた。頭のおかしいカップルに違いない。
悪態を何度もついてしまう。腹が立ってしょうがない。あんなふざけたことをしていたら、例え轢かれても文句は言えないだろう。
「あっ…」
怒りに任せて運転していた俺は、直前の考えを深く後悔した。明るい照明をまとも見てしまって、目を細めた瞬間に、思わず人を轢いてしまったのだ。衝撃を感じる寸前、道路の真ん中で揉み合う二つの人影が見えた。
俺はハンドルを誤って、車を壁に激突させた。朦朧とする意識のまま大破した車から這い出すと、そこは地獄の様相を示していた。ばらばらに飛び散った肉片は人であった面影すらない。
俺は逃げた。何も考えられず、ただ走り出した。息が切れ、足は棒のようになり、曲がり角に泥のように広がっている闇の中にうずくまった。
しばらく休むと少しだけ冷静さが戻ってきた。外に連絡しようとしたが、周りは分厚い壁に囲まれており、どこにも電波は届かない。誰か助けてくれないかと呼びかけて見たが、自分の声が何度も何度もこだまするばかりだった。
俺はとぼとぼと歩き出した。とにかく出口に向かうべきだと結論したのだ。
長い直線。曲がり角。等間隔の照明。暗い、明るい、暗い、明るい。しばらく歩いていると、急に何かに足を掴まれたような感覚がして、大きく前につんのめった。そのままよろけるようにして数歩進むと、車がそばを掠めて行った。
「危ないぞ! 馬鹿野郎!」
運転手から暴言が飛んで来る。助けを求めて思わず「待て!」と叫んだが、すぐに車影は消えてしまった。
俺は肩を落としてぶらぶらと力なく歩き続けた。そうして何度目かの暗がりを越えて、何度目かの明るみに出た時、突然背後に気配を感じた。ぺたぺたという足音が微かに聞こえる。俺が振り返ると影のような何かが動いた気がした。だが、それと同時に車がそばを通り過ぎて行き、俺は思わず飛びのいて、走り去る車を呆然と見た。ハッと気がついて背後に視線を戻した時には、そこにはもう何もいなかった。
俺は何かに怯えていた。正体不明の不安が忍び寄ってきている。
長い直線。曲がり角。等間隔の照明。暗い、明るい、暗い、明るい。眩い照明に目を細めると、ふと腕に寒気を感じた。目をやると、真っ暗な手が照明に照らし出された俺の腕を掴んでいる。驚いて振りほどこうとした瞬間に、またもや車が通り過ぎ、俺は尻餅をついてしまった。すぐに起き上がったが、真っ暗な手はどこかに消えてなくなってしまっていた。
ある予感が俺の中で強まっていた。車に乗って走っていた時のことが頭をよぎる。轢かれて飛び散る無残な肉体。その人間の頭、顔は俺自身であったような気がしてならなかったのだ。俺が俺の運転する車に轢かれるなんておかしな妄想だと理解してはいるが、この状況は異常過ぎる。これまでの道行きを思うとまんざらありえなくもないように感じてしまう。
俺は走った。何とか現状から逃げようと出口を求めた。しかし、すぐにへばってしまって、道の脇にこぼれた闇の中に身を潜めた。
闇から薄暗く照らされた道路を見た。すると閃くことがあり、俺はベルトを外して片方の端を持った。ベルトの金具が先になるようにして振り回すと、照明に向けて思いっきりぶつける。照明は電灯が露出している簡素なもので、金具が当たると簡単に壊れ、闇が広がった。
何かが起きるのはいつも明るい照明に照らされた場所だ。だったら壊してしまえばいい。俺が人を轢いたのも、眩しい照明の所為だった、全部闇に呑まれてしまえば、同じ状況になるはずはない。
照明を壊しながら進む。俺の考えが正しかったのかは分からないが、闇に身を置いているうちは、あの真っ暗な影のような妙な何かは現れなかった。
長い直線。曲がり角。等間隔の照明。暗い、暗い、暗い、暗い。無限とも思える時間を進み続け、俺はついに出口を見つけた。外が眩しい。涙が出てくる。温かい太陽の匂いに向かって俺は駆け出した。
陽に照らされた場所へ。光の中へ。あと一歩で外だ。そう思った瞬間、何かが後ろから抱き着いてきた。揉み合うように道路に転がる。なんとか振りほどいて外へ逃げ出そうと出口へ目を向けると、先刻まで確かに存在していた眩い太陽の光は、ただの眩い照明の光にすり替わっていた。俺は恐怖し、手足が強張り、哀れな虫のように蠢くことしかできなかった。
道路にぴったりくっついた体に振動が伝わってくる。車がやって来るのだ。俺は何かに羽交い絞めにされ、この場を離れることはできない。あんなに視界を覆っていたはずの霞は今は晴れて、迫りくる車輪がはっきりと見える。遠くに現れた車は、瞬く間の俺の眼前までやって来て、声を上げる暇もなく、全身が凄まじい衝撃に襲われた。
視界がグルグルと宙を飛んで回転する一瞬、運転手と目が合った。それは確かに俺自身の顔だ。顔面中が驚愕に覆われて、信じられないというように大きく歪んでいる。俺の頭は、ああ、とただ息を漏らして、真っ逆さまに落下すると、道路の脇の影の中へと呑み込まれていったのだった。




