第726話 屋上の人質
強盗犯が息を切らして街はずれをひた走っていた。片手には札束がぱんぱんにつまったボストンバッグ。もう片手には拳銃。
車で逃走していたのだが、速度を上げすぎた末に、電柱にぶつけて大破。乗り捨てるしかなかった。
威圧的なパトカーのサイレンが四方八方からにじり寄り、炎のような赤い光をまき散らしている。追い立てられるように男は逃げつづける。
石造りの橋をこえ、狭い路地を突き進むと、鉄筋がむきだしになった廃ビルを見つけた。
ガラスが割れた入り口の扉をくぐって身をひそめる。
そうして外の様子をうかがっていたのだが、警官のひとりが物陰にいる強盗犯を見とがめた。
強盗犯はビルのさらに奥へと逃げる。瓦礫と埃にまみれた通路を踏みしめる。突き当りの扉を開けると階段。上へ。上へ。
各階の扉はすべて施錠されていた。階段を上りつづける。警官の足音が、下の階から近づいてくる。焦りとバッグを抱えて屋上を目指す。
追いかけっこの終着点。
強盗犯が廃ビルの屋上の扉を開けて、勢いよくとびだした。
ゆがんだ手すりに取り囲まれた寂れた屋上。ふり仰ぐと錆だらけの給水タンク。
すぐに警官もやってくる。銃を構えながら、無線で応援を呼んでいる。
強盗犯は声をはりあげた。
「動くな! 動くとあの女を撃ち殺すぞ!」
片手に持った銃の銃口が向けられているのは屋上の隅。そこには、手すりにもたれるようにして、ぽつんとひとり、女がいた。女は突然やってきた強盗犯と警官におどろいている様子。
警官は冷静に説得を試みる。
「おとなしく投降しなさい。応援を呼んだ。このビルはすぐにでも包囲される。いまならまだとりかえしがつく。人の命を奪うと重い罪を背負うことになるぞ」
「うるさいっ! あの女を殺されたくなかったらおれを無事に逃がせ! 逃走用の車を用意しろ! おれに近寄るな!」
「わかった。近寄らないから。すこし落ち着いてくれ。ぼくも君を撃ちたいわけじゃない」
銃をホルスターにしまった警官は、無抵抗を示すために両手を挙げた。
応援はなかなかこない。パトカーのサイレンが近づいては遠のくのをくりかえしている。入り組んだ路地の奥にある廃ビルを見つけられずに迷っているらしい。
強盗犯は警官から決して目を離さないようにしながら、じりじりと屋上の隅に移動して、女の隣に立った。
そして、銃口をぴたりと女の頭に当てる。その瞬間、女がわっと泣きだした。
恐怖のあまり、かと思いきや、どうやらそうではないらしい。
「わたしを殺してくださいっ!」
「な、な、なんだって?」
思いもよらぬ叫びに強盗犯は耳をうたがう。
「もう死ぬしかないんです」涙にぬれた鼻声で強盗犯にすがりつく。「お願いです殺してください。その引き金を引いてください。とびおりようとしたけど、わたしはいくじなしで、勇気がなくて、どうしてもできなかったんです。背中を押すだけでもいいです。突き落としてくれるだけでも。お願いします。お願いします……」
こんな話に慌てたのは強盗犯だけではなく、警官も同じ。
「お嬢さん。詳しい事情はあとでうかがいますから、とにかくいまはご自分の命を大事になさってください」
「できません!」
女はつっぱねて、強盗犯の腕をつかむと、銃口をむりやりに自分の額へと向けさせた。
「ちょっと待て! 待ってくれ!」
ふりほどこうとするが、女の力は思いがけなく強い。撃ち殺してしまっては、人質がいなくなって捕まるしかなくなる。人質は生かさず殺さず。殺してしまっては意味がないのだ。
「殺してください!」
「離せ! やめろ!」
そんなふたりのやりとりに警官が口をさしはさむ。
「お嬢さん。お話を聞きましょう。なにがあったんですか」
こちらを先に解決しなければならないという判断。強盗犯もこれ以上暴れられてはたまらないので、おとなしく女の話を聞くことにした。
「……じつは、大好きな彼にふられてしまったんです」
恋わずらい。失恋の末に自殺を思いたった。よくある話だ。けれど、当人にとっては命を左右するぐらいの重大事件。
「そんなこと……」と、強盗犯がこぼしかけると、警官がかぶせるように、
「それはとてもおつらい経験をされましたね」
「あなたになにがわかるんですか!?」
「いえ。わかっていないかもしれません。けれど、あなたをお救いしたいというぼくの気持ちは本物です。どうかお力にならせてください」
実直な警官からは真摯な雰囲気が発散されている。それにほだされた女はほんのすこし心が動かされたようだったが、ぎゅっと眉根をよせて、誘惑をふりはらうみたいにかぶりをふると、
「やっぱりダメです。わたしは死ぬしかないんです。これからの人生に砂粒ひとつの希望すらありません。早く撃って! 撃ちなさいよ! あんたなんのために銃を持ってるのよ! 人殺しなんでしょ!」
強盗犯もたじたじ。じつはこの強盗犯、一度も人を撃ったことがない。銃は脅し用の道具。
「おいそこの警官。こいつの代わりに新しい人質を用意しろ。それから逃走用の車もだ」
さっきの要求に上乗せする。
「ならぼくが人質になりましょう。その方を解放しなさい」
「それでもいい。それがいい」
話がまとまりそうになるが、
「誰が解放されるもんですか」
女が突っぱねて、強盗犯にからみつく。
「かんべんしてくれ。殺人罪はさすがにマズイ。たのむから死ぬなら自分ひとりで死んでくれ。ちょっと人質になってくれたらすぐに解放してやるから」
ついには強盗犯が懇願するはめになるが、女は逆上。
「それができないから頼んでるんじゃない! こんなに頭をさげてるのにどうして撃ってくれないの!? わたしはもう一生恋なんてできないのよ! 死ぬしかないじゃない!」
頭をさげるというより、強盗犯がさげようとしている銃口に額を押しつけている体勢。なんとかなだめようと強盗犯が言葉をしぼりだす。
「一生なんて長いんだからいい人が見つかるよ。君はまだ若いし、きれいだし」思いつく限りのお世辞を並べて、最後に余計な一言。「いっそおれがお付き合いしたいぐらいだ」
ほんの軽口のつもりだったのだが、言葉尻と共に腕をがっちりとつかまえられてしまった。
「……ほんと?」
ここまできて否定もできない。強盗犯はしずしずとうなずく。
警官としては困った展開。共謀犯になってしまう。
「そんな男はやめておきなさい。共犯になればあなたも罪を負うことになります」
必死の呼びかけ。しかしハードルが高ければ高いほどにはげしく燃えあがるというように、女は目の前の恋に没頭しはじめた。
「わたしと一緒にいてくれる?」
「ああ。ああ。もちろんだとも」
やぶれかぶれに強盗犯が肯定すると、
「わたし、あなたとふたりなら勇気を出せる気がする」
女の体が傾いた。
「なにをするっ!?」
ひっぱられた強盗犯は、女もろとも手すりを乗りこえ、廃ビルの屋上から落っこちていった。




