第711話 セルキーの皮を着た男
波打ち際で貝拾いをしていると、潮騒がうねる岩の谷間から、大きなアザラシがぬるりと姿をあらわした。チューブから中身がとびだしたというような異様なあらわれ方であったので、おれは驚いて身構えたが、海水にぷかぷかと浮かぶそれは、どうやら死んでいるみたいだった。晩飯にしようかと近づいたが、肉がなくてがっかり。ぺらぺらのアザラシの皮だけ。
拾いあげる。死臭はない。ほんのりと生臭くはあるが、潮の香りが中和してくれている。ウェットスーツのような触り心地。首の部分に真横の切れ目。胸の部分にも縦にまっすぐの切れ目。切断面はきれいで、シャチに食い破られたわけではなさそうだ。誰かが解体して肉と内臓を取りだしたのだろうか。内側を覗いてみると、皮の裏は綿がつめられたマットのようで、どこか着ぐるみめいていた。
と、おれは、祖父に聞いた昔話を思い出した。
このあたりの海にはセルキーというアザラシの妖精があらわれるらしい。セルキーは普段アザラシの姿をしているが、アザラシの皮を脱いで人間の姿になれる。
きっと、これはセルキーの皮。そうに違いない。皮を脱いで人間になり、いまごろ町で遊んでいたりするのだろうか。
好奇心が湧きあがる。
そっと袖を通してみる。
寝袋に体をおさめるみたいにして、尾びれのほうへ足を伸ばす。腕は前足へ。ヘルメットをかぶる要領でアザラシの頭に顔を入れる。
皮はおれの肌に吸いついて、フィットする。首元と胸元にあった切れ目は自動的に閉じた。ぴったりと、傷ひとつないつるりとした表面に。
ガラス玉を通したような視界。けれど鮮明だった。前足も後ろ足も自由に動かせる。呼吸もできた。
おれはいま、アザラシになっている。
砂浜をよちよちと這いずって、波に体を預けてみる。まずは浅瀬。水に顔をつけると、自然とアザラシの鼻の穴が閉じた。アザラシの皮はもはやおれの皮膚になっており、海水の冷たさを肌で感じる。けれど、寒くはなく、どこか懐かしい。
これが妖精の道具というものかとおれは感嘆しながら、とうとう海にとびこんでみることにした。
おれはアザラシの体を思い通りに動かすことができた。地上でのノロマさとはうってかわって、海中では自由自在。なんとも気持ちがいい。
自分が波の一部になったかのような感覚。
雄大な海に抱かれる安心感。
水面でゆれる光に照らされ、無数の魚たちがおりなす美しい光景。
ふと目の前を通りがかった魚をぱくりと食べてみた。うまい。
アザラシとして、海で暮らすのも悪くないかもしれない、と思った。
なにせ、いまのおれの生活は困窮のどん底。今日も耐え難い空腹に苛まれて、貝拾いで小腹を満たすべく海にきていたのだ。
海というのは素晴らしい。面倒な社会というものがなく、己の力だけで暮らすことができる。
そんなことを考えていたおれに、おおきな影が忍び寄ってきていた。
仲間のアザラシだ。
なんだか笛を吹くような鳴き声をあげている。水中だが、相手の声がよく分かった。けれど、意味はわからなかった。脳みそまではアザラシになっていないからだろうか。相手はどんどん接近してくる。そして、おれに抱き着いてきた。
おれは驚愕で体をばねのようにはねさせると、相手をふりほどいて逃げだした。
なんてことだ。相手はオスのアザラシ。そして、おれが着ているセルキーの皮はメスのもの。発情してやがる。これはいけない。逃げなければ。
アザラシの求愛行動の作法など知らないので、どうやって断りを入れればいいのかもわからない。ただひたすらに体をうねらせ、水をかき分けて逃げまわる。
岩間を抜けて、サンゴ礁を越え、太いワカメの森にまぎれた。そうしてようやくオスの目を逃れることができたのだが、一難去ってまた一難。
白と黒の巨体。ぞろりと並んだ鋭い牙。
海のギャングの登場だった。
アザラシの天敵。シャチだ。
おれは先程までよりもずっとずっと必死になって、泳いだ。できるだけ狭い隙間を通って、強靭なあごにかみ砕かれてしまわないように。
しかし、シャチというのはとてつもないパワーの持ち主。そして執念深い。どこまでも執拗につけ狙ってきて、ついには追いつかれてしまった。
海上へ向かう。
セルキーの皮を脱いで、それをおとりにして逃げようと決意した。
ばっ、と水面から顔を出して思いっきり息をする。すぐに、皮を脱ごうとしたのだが、どうやって脱ぐのかがわからない。
まごついていると、足元にはシャチが。
するどい牙に、とらえられてしまう。
足がひきちぎられた。
しかし、それはおれの足ではなかった。アザラシの皮。セルキーの皮の足部分。
破れた部分から、おれの人間の足がとびだして、がむしゃらに暴れた拍子にシャチの顔面を蹴りつけた。
この思わぬ反撃は、よほどシャチをびっくりさせたらしい。
足の皮だけをくわえて、シャチは海中へと帰っていった。
おれは陸を目指して泳いだ。上半身はアザラシ、その前足を使って水をかき、下半身は人間の足を使ってバタ足だ。
砂浜に乗りあげると、岩に体をこすりつけるようにして、シャチが破ってくれた足のほうからセルキーの皮を脱ぎ捨てる。
まったくひどい目にあった。
アザラシの生活というのも楽ではないらしい。弱肉強食の世界というものをいやというほど体験させられた。
皮は見つけた場所に戻しておいて、海から離れる。これなら人間の暮らしのほうがよほどマシというものだ。もうすこし頑張って人間として生きることとしよう。
しばらくして、海で人魚を目撃したという噂を聞いた。
奇妙なことに、その人魚というのは、上半身はひれのある魚っぽい姿で、下半身は人間だったのだという。




