第678話 人魚に恋した魚
魚が人魚に恋をした。
当然のことだが、魚というのは上から下まで魚の体。上半身が人間で、下半身が魚の体をした人魚とはまったく違う。
けれども、魚は種族を超えて、人魚が好きになってしまったのだ。
きっかけは嵐の夜。たまたま通りがかった人魚が、溺れた魚を助けてくれた。
魚が溺れるなど、猿が木から落ちて、天狗が飛びそこね、河童が川を流れるような異常事態なのだが、その日の波は大荒れで、さながら洗濯機かミキサーかという激しい海模様だったので仕方がない。
鱗がひっぺがされそうなうねりのなかで、必死で尾びれ、胸びれ、背びれを動かした。けれども、岩に追突し、魚は気を失ってしまった。
あわや渦潮に呑まれる。そんなとき、人魚がそっと魚を拾い上げた。そうして、嵐の外へと連れていってくれたのだ。
気がついたとき、目の前にはたおやかなほほえみがあった。魚はたちまちのうちに人魚の虜となった。
虹色の貝殻のような彼女のくちびるから紡がれる美しい歌。サンゴ礁よりも華々しい髪。クラゲよりも透明感のある肌。そして特に魚が人魚を気に入った点というのが、鱗が自分と同じく光沢のある緑色なところであった。
命の恩人、恩魚。深く感謝した魚はことあるごとに彼女へ贈り物を捧げた。イソギンチャクの触手で作ったリボン。抜けたサメの牙で作ったブレスレッド。イカの墨で描いた絵画。
贈り物をする裏に恋心があったことは言うまでもない。
会う毎に、魚の気持ちはふくれあがる。
あるとき、勇気をふり絞った魚は人魚に告白をした。
度重なる逢瀬によって、気持ちが通じているのではと魚は思っていた。
けれど、人魚のほうはそんなことは思いもよらぬという顔。
「ごめんなさい」
という言葉が、魚の頭にこびりついて呪縛となった。ショックのあまり波に流され、深い海の谷の底へと沈んでいく。海底火山が有害な化学物質を噴出させている暗い暗い場所で、魚は海の悪魔に出会った。
「どうしたんだね」
悪魔は天使の顔をしているというが、まさしくそれは正しかった。魚の心はあっという間に篭絡されて、悪魔と契約を交わしてしまった。
悪魔の魔法によって魚は半魚人に姿を変えた。だが、その代わり、ひと泳ぎするたびに人間の上半身には痛みが走り、さらには愛する人魚の心を射止めることができなければ、魚の魂は悪魔に奪われるのであった。
半魚人はさっそく人魚の元へと赴いた。
ふたりはよき友人となった。だが、それ以上の関係に発展することはなかった。というのも、人魚は恋をしていた。その相手というのは人間の王子であったのだ。
「なぜ人間を好きになるんだ。我々とはあまりにも違う体をしているじゃないか。君には似つかわしくないよ」
半魚人が言うと、人魚を夢に浮かされたような瞳で水面の月を見上げて、
「違うといっても半分だけよ。それに、人間って素敵じゃない? 海のなかにはないようなものが地上にはあふれている。それらを全部人間が作ったと考えると、わたし尊敬したい気分になるの」
「手先の器用さならぼくも負けていないよ」
人間が海に捨てた釣り糸を編んで作った小さなおにんぎょうを差し出す。
受け取った人魚はほつれた毛玉のようなにんぎょうに目を細めた。しばらくのあいだ指先でもてあそばれたにんぎょうは、人魚が腰かけている岩の上に置かれ、波にゆれて転がると、砂の下にいたヒトデたちに持ち去られてしまった。
「人間は人間にしか恋をしない。人魚は半魚人としか恋をするべきじゃない」
「そうかしら」
小首をかしげられて、長いまつげが海水をくるくるとかき混ぜる。
「ぼくは君が好きだ」
「ありがとう。でも、わたしはやっぱり――」
半魚人の恋が実ることはなかった。
陽が昇ると同時に悪魔との契約が履行された。
魚の魂は悪魔に奪われた。
けれど、悪魔にはひとつ誤算があった。
魚を半魚人にする魔法を使ったのははじめて。その際に魂がどういう状態になるかまでは把握しきれていなかった。半魚人のなかには魚の魂と人間の魂があった。肉体の変化に合わせて、もともと魚だけでしかなかった魂が変質し、分裂してしまっていたのだ。
人間の魂だけが残った結果、半魚人は人間の男となった。
浜辺に倒れていた男を、親切な青年が助けた。白い毛並みの馬に乗せられ、運ばれると、ふかふかのベッドで治療を受ける。
医者の見立てでは命に別状はない。ただし、足が非常に弱っているとのことだった。
青年は男に住む部屋と食事を与えてくれた。
男は豪奢な部屋に目を丸くしながら、青年はどこかの金持ちの商家の息子なのだろうと思った。詮索するのは失礼な気がして聞くことができなかった。歩けるようになったら出ていくと約束し、男は毎日、杖を手に部屋のなかを這いずるようにして歩く練習に励んだ。
部屋の片隅にあるトイレや浴場ぐらいには自分の足でいけるようになったが、それ以上歩くには、かなりの苦痛を伴った。なにせ一歩あるくたびに、ハリセンボンに頬ずりされたような激痛が全身に走るのだ。
しかし、青年が用意してくれた鎮痛薬が効いてきたのか、そのうちバルコニーの扉を開けられるぐらいになった。
涼やかな潮風が室内に吹き込み、男の心に郷愁が沁みた。けれど、自分がなにを懐かしがっているのかはわからなかった。男は記憶喪失になっていたのだ。
バルコニーに出て、眼下に広がる街並みに驚嘆し、そうしてふり返った男は、自分が住んでいるのがなんの建物なのかを知って、さらなる驚きに包まれた。
男がいたのは城の一室。男を助けた青年は、この城の王子であったのだ。
王子が正門から姿をあらわすと、城下町の人々はみな一様に顔をほころばせ、親しみのこもった眼差しを向けた。立場を超えた親密なやり取りがそこにはあった。
高貴さが鼻につかないそんな青年のかたわらにはひとりの女性がいた。王子に手を引かれて、森のほうへと小走りにいく。
ふたりは橋を渡って川に浮かぶ船に乗り込んだ。船にゆられてカエルの合唱や、川のせせらぎを楽しんでいるようだ。
男は遠い木陰に船が隠れて見えなくなるまでふたりの行方を視線で追ってから、ゆっくりと室内に戻ると、海底の泥のようにベッドに横たわった。
固くまぶたを閉じる。
なぜだかはわからなかったが、いまは体よりも心のほうがよほど痛んでいた。
妙に疲れていて、ぐっすりと眠る。
夢のなかで男は海の波にゆられながら、泡かシャボン玉のようなものを見つめていた。けれど、目が覚めたときには喪失している記憶と同様に、なにも覚えてはいなかった。
以降、男はバルコニーから見える風景のなかに、たびたび女性の姿を見つけた。王子と一緒にいたその女性は天真爛漫。なにもかもが新鮮という態度で町中を歩き回っていた。そうして町を一巡すると、城のほうへと帰ってくる。どうやら彼女も城の住人のようであった。
友人として部屋を訪れてくれた王子に、男はそれとなく彼女のことを尋ねた。
すると、彼女は男と同じように浜辺に倒れていたのだという。もしかして親類縁者かと王子に聞かれた男は、まるで心当たりがないと答えた。
月日が流れ、男はすっかり自分の足で歩けるようになった。約束通りに、借りていた部屋を出ていく準備をする。引き留めようとする王子の言葉に感謝を示しながらも、男の意思は変わらなかった。
城門をくぐると、たまたま彼女も外に出かけるところであった。バルコニーから一方的によく目にしていたからか、いざ彼女を前にすると、いつか見たようなほほえみだと思った。
「はじめまして」
あいさつを交わすと、彼女は男の隣をついてきた。
「あなたのこと、王子様から聞いてはいたけど、会うのははじめてね」
「ええ。体が衰弱していて部屋からほとんど出られなかったんです。でも、王子様のご親切のおかげでいまではすっかりこの通り。本当に素晴らしい方ですね」
「そうね」
彼女はきらきらとした瞳で空を流れる雲を眺めた。くるんとそり返った長いまつげが渦を作り出して、いまにも雨が降り出しそうな気がした。
「本当に素敵な方。もうすぐ結婚なさるのよ」
「あなたと?」
男が思ったままを口にすると、彼女は眉尻を深く落として、
「残念ながらそうじゃないの。お隣の国のお姫様とよ。わたしなんて全然かなわない」
「そうなんですか」
彼女の顔を見るのが息苦しくなってきた男は、通りの脇にある屋台に並べられた魚に視線を向けた。それでもやっぱり息苦しさが変わらなかったので、足元の石畳の歪な継ぎ目だけを見ることにした。
「わたしもあなたみたいにお城を出ていこうと思うの。これ以上、王子様のご厚意に甘えてもいられないから」
ハイヒールの靴の先で小石が蹴っ飛ばされると、カツンとはねて、側溝に転がり落ちた。
「そうだ」ぱちん、と手が叩かれる。
「よかったら、わたしを連れていってくれない? あなたはどこにいくの?」
行先はなにも考えていなかった。ただ、気の向くまま、行雲流水に旅をするつもり。しかし、まずは海を見にいくつもりだった、
「ぼくは――、ひとりで海にいこうと思います」
「――そう」
彼女はすこし残念そうに肩を竦めて、
「海になにをしにいくの。あんなところ、ただ波が寄せては返すのをくり返しているだけで、なにも面白いものはないよ」
「ただ海が好きなんです。なぜかは思い出せませんが。もしかしたら、人魚にでも恋していたのかもしれません」
冗談めかして言うと、彼女はほほえんで、
「その恋、成就するといいね」
男の肩をポンとたたくと、踵を返して、城を見上げた。
「わたし、今夜中に城を出ることに決めた」
「そうですか」
「じゃあね」
「ええ」
彼女と別れると、男は風が運ぶ潮の香りを頼りに海を目指した。
城下町を出て、野原で少し迷いはしたが、日が暮れるまでには海岸に到着。太陽が沈む海を眺めて、今夜は波の音を聞きながら野宿をすることにした。
大きな岩場を見つけると、その陰に腰を下ろす。王子にいただいた暖かいローブを着込んでいたので、夜の寒さも平気であった。
月が昇った頃、男は水がはねる音で目を覚ました。
海岸のほうへいくと、潮騒がごうごうと唸りをあげ、強い波が幾重にも押し寄せていた。まどろみのなか、天鵞絨のような海を眺めていると、ちょうど月の影が落ちる場所に、いつか見たような優し気なほほえみに似た泡がひとつ浮かんでいた。




