第557話 ヌマヌリ
霧の濃い日。干していた洗濯物にできた黒ずみ。
これはカビ、ではありません。
カビモドキ。ヌマヌリです。
近くの沼から飛ばされた種子が偶然わたしの家にまでたどりついたのでしょう。
ヌマヌリの種子を洗剤で落とそうとしてはいけません。彼らは洗剤や消毒液を栄養にして爆発的に増殖します。二度洗いなどしようものなら、衣服が真っ黒に染まり、着心地がとても悪くなってしまいます。
ではどうすればいいのかというと、対処法はただひとつ。たっぷりの水を入れた底の深いバケツに、おもしを乗せて沈めておくことです。彼らは水圧に弱いので、一晩もすればぽろぽろと剥がれます。
けれど、せっかくなので、こういった機会に遭遇した場合は、その生態をじっくり観察してみることを、わたしはおすすめします。
ヌマヌリというのは通常、沼に生息しています。ヌマヌリの種子が沼に漂着すると、彼らは水面にぷかぷかと浮かびながら、水中に根を伸ばして沼の状態を調べます。沼がすこしでも深かったり、広かったりすると、水質からそれを察知して、空に向かって細く赤い葉を伸ばします。鳥の羽根のような葉っぱです。これが帆の役割になって、風を受けることで、別の沼を探して飛んでいくのです。
ちょうどよい沼だと判断すると、ヌマヌリは増殖を開始します。水面に浮かびながら根を横に伸ばして、一定の間隔をおいて水上に茎を伸ばします。茎の先からは黒くて丸い三つ葉が生えます。これは一見、大量のヌマヌリが群生しているようにも見えますが、全ては一本の根で繋がっているのです。
偉大な画家が壁いっぱいの点描画を描くように、彼らは沼を塗り固めるようにして覆います。すると、沼は彼らにとっての工場になります。エネルギーを作り出す工場です。彼らはその工場主といったところでしょうか。
沼のなかでは酸素が急速に低下し、生き物が死滅します。
浮かんできた生き物の死骸や、それらが発生させるガスは全て彼らの栄養になります。その栄養によって彼らは胞子のような種子を生成して、空中に放出します。
種子を放出した彼らは、黒い三つ葉で太陽光をめいいっぱいに吸収します。そうして得た熱により、沼を温めるのです。すると、沼のなかに残っている生き物の死骸は発酵をはじめます。
彼らは根で酵素を飼育しており、その作用もあって、発酵速度は目まぐるしいものです。数日もあれば沼は粘性を帯びて、ひとかたまりの巨大なゼリーのようになります。このゼリーを採取して食品として売っている店もあります。もし店頭で見かけた際は、ぜひ購入してご賞味ください。
実は彼らがこうしてゼリーを作る理由は解明されていません。ゼリーは彼らの生存になんら関与していないのです。沼を覆った彼らの活動は種子を放出した時点で終わっています。種子を放出した彼らは枯れてしまう運命です。枯れる前のわずかな余生で、わざわざゼリーを作っているのです。
わたしの仮説では、これは沼の浄化であると考えています。
ゼリー化した沼は呼吸をしています。もちろん呼吸というのは比喩ですが、酸素の吸収、浸透が早まっていることをわたしは発見しました。おそらくはこれによって、一度自分たちが下げてしまった水中の酸素濃度を回復させ、ゼリーが完全に溶けきって、元の沼に戻ったとき、生き物たちが再び棲めるようにしているのだと思うのです。
これに対して別の説もあります。彼らの作るゼリーは鳥を誘引する効果があることが知られています。それによって鳥を集めて、胞子状の種子を鳥の体にくっつけて、遠くに運んでもらおうとしているのだ、というのです。
いずれの説が正しいのか。両方が正しいのか。はたまた両方が間違っていて、さらに別の理由があるのか。興味が尽きないところですが、結論を出すにはまだ時間が必要そうです。
洗濯物に付着したヌマヌリの種子について話を戻します。
虫眼鏡などで観察すると、稲妻のような形をした彼らの体、一本一本がわかると思います。繊維に絡みついた一本をピンセットでやさしくつまんでひっぱってみてください。簡単に引き抜けるはずです。
引き抜いた一本をチーズに移植します。深めに植えるのがコツです。二本でも三本でも結構ですが、はじめは一本にしておくのがいいでしょう。
これを居間のテーブルにでも置いてみてください。
彼らの感覚器官ではチーズと沼の区別がつきにくいようなのです。けれど、チーズぐらいの固さがあれば根を伸ばせず、増殖ができません。混乱した彼らは日光を集めるための黒い三つ葉と、風に乗るための赤く細い葉を同時に生やします。
数日が経つと沼では絶対に見られない、ヌマヌリの樹になります。そうして自然では決して咲くことのない花を咲かせるのです。
青白い、白鳥が翼を広げたような姿の花です。
これは素晴らしいインテリアになります。
さらに日数が経過すると、三つ葉と細い葉が螺旋のように絡まった幹が、玄関の方向へと伸びます。彼らは正確に家の玄関を把握しているのです。これは非常に興味深い事実です。土台になっているチーズの向きを変えると、伸びる方向も変わります。なんどか試してみてください。置き場所を変えてみるのもいいでしょう。彼らが確かに玄関の位置を把握していることがわかると思います。窓などの開口部ならなんでもいいというわけではなく、家の出入り口です。
彼らは脱出を目指して伸び続けますが三つ葉の枚数が細い葉の枚数を超えたら、処分するようにしてください。
放っておくと彼らは黒い三つ葉で集めた熱で自然発火してしまいます。
処分の際には根元から切断して、チーズはおいしくいただいてしまいましょう。二種類の葉っぱは炒め物にするとよいでしょう。茎は水で洗ってドレッシングにつけて食べるのが一般的です。もし種子が付着していれば、それは食べてはいけませんよ。取り除いてくださいね。
沼の味覚。コクのある味です。




