第54話 初恋
男はスパイだった。元々孤児であった男はある裏組織に拾われ、構成員として育てられた。闇の中で生き、何者も信用せず、してはならなかった。組織は男が優秀な道具となるようにスパイに必要なあらゆる教育を施した。その結果、男は最高のスパイへと成長した。
あらゆる人間の懐に入り込み、どんな企業にも潜入できた。男の仕事は組織に大いなる利益をもたらした。その活躍は評価され、十分な報酬が支払われた。
誰もが男の仕事を褒め称え、同じ組織に所属する重要な同士として扱ったが、その真の心を知る者はいなかった。男は孤独だった。町から遠く離れた山の中に一軒の家を建て、たった一人で暮らした。そうして自身の財産を全てその家の保管庫に収めた。自分以外の者にそれらの管理を任せるなど考えられなかったのだ。
財産を守る為の防衛装置も自ら設計、開発した。装置は男の存在を精密に認識し、それ以外の者を侵入者として排除するようになっていた。しかし、自ら作り上げた装置ですら男は信用していなかった。
男は人を雇い、自分とそっくりになるように整形させた。そして財産の保管庫へと侵入させたが、防衛装置はあっさりと見破って偽物を排除した。その後も同じようなことを繰り返し、確実に侵入者が排除されていく様を確認したが男はそれでも納得しなかった。
今度は男自身が変装した。スパイとして培った技術の粋を尽くして誰にも見破れないであろう別人へと変身した。しかし、防衛装置は難なく男を判別して保管庫へと通した。防衛装置は姿形だけでなく動作、声、匂い、体温、健康状態、精神状態などあらゆる角度から人物を分析しており、いくら試しても結果は同じだった。男はやっと安心して財産を防衛装置に託すことができた。
スパイ活動は日を追うごとに過酷になっていったが、男がどんな変装をして帰還しても、怒り狂っていたり、悲しみに暮れていても、汚れに塗れていても、防衛装置は正しく判定して保管庫への扉を開けた。その間も数名の者が男の財産のことを嗅ぎつけて侵入を試みたが、それらは全て防衛装置によって排除されていた。
男は生まれて初めて信頼という感情を知った。防衛装置に対して芽生えた信頼は高まるばかりだった。防衛装置の正確無比な判定に対して、男は自分の本質が理解されていると感じた。
その日、男は任務を終え、久方ぶりに自分の家へ帰ろうとしていた。気持ちが逸っていた。こんなことは初めてだった。一輪の花と機械を清掃する為の道具を購入した。贈り物をしようなど、今までの自分では考えられない行動だった。
玄関を開け家に入る。早速保管庫へと直行すると警報が鳴り響いた。侵入者を知らせるものだ。男は身構え、辺りに鋭い視線を走らせた。しかし、誰一人として見当たらない。
次の瞬間、男は防衛装置が照射した熱線によって消し炭になっていた。焦げ臭い匂いが漂い、真っ黒な死体が転がる。その手には一輪の花が握られていた。美しく咲いたそれは防衛装置の監視カメラに向かって、捧げるように差し出されていたのだった。