第538話 電波ちゃん
スマホの画面が蛍光灯を反射してちらちらとまたたいている。
アンテナ表示が一本。二本。また一本。
調子悪いなあ、と思っていると、圏外。電波が切れてしまった。
駅のホーム。
わたしは終電を待ちながら、明日、仕事でいく場所を地図で調べていたのだが、ネットがつながらないと、この作業は断念するより他ない。
隣で同じようにスマホをいじっていた女の子も電波が切れてしまったらしく、首をかしげてスマホと高く持ち上げたり、ゆっくり左右に動かしたりして、電波を探す仕草をしている。学生服。高校生ぐらいだろうか。こんな時間まで出歩いているなんて不良だ。と思ったけれど、背筋がしっかりと伸びていて真面目そうな子だ。遊んでいたのではなく、塾の帰りかもしれない。
つられてわたしも電波を探して、スマホをかかげて画面を見上げてみる。
残念ながら圏外のまま。
このあたりは田舎だからこんなことはしょっちゅうある。慣れっこなのだが、やっぱり困る。
はあ、と溜息。予期せぬことで作業が中断されてしまうこの感じ。おでんの具みたいにぐつぐつと心が煮られて、ストレスがじっくりと染み込んでくる。そういえばおでんが食べたい。後でコンビニに寄ろう。今夜は冷蔵庫に入ってる昨日の残り物を食べようかと思っていたけれど、舌がもう、おでんの舌になってしまった。
冷たい夜風に乗って響いてくる、へたくそなラッパ音。
深海を泳ぐ潜水艦みたいな強烈なライトが、暗闇を切り裂いてまっすぐこちらへ向かってくる。
やっと電車がきた。
帰れると思うと仕事モードの体から一気に力が抜けてくる。
肩にかけていたカバンがずりおちそうになって、慌てておさえる。
はあ、と、また溜息。
と、その時。
隣で電波を探していた女の子が、前に出た。
一歩。
あぶない。
二歩。
とめなきゃ。
「ちょっと」
手を伸ばす。けれど私の手はなぜか届かない。女の子はすぐそこにいるのに、遠ざかっていく。凹面鏡に映る虚像に触れようとしているような、そんな感覚。
――あぶないっ!
心の中に叫びがこだましたが、喉がガムテープでくっつけられてしまっているように声がでない。
電車がくる。
女の子の足が黄色い点字ブロックを越えた。
線路に踏み出し、落っこちようとしている。
車掌さんは気づいていないようだ。
もうだめだ。
女の子は線路の影にのみ込まれた。
すぐさま鉄の嘶きと共に電車が滑り込んでくる。
わたしは思わず目をつぶって、きたるべき衝撃に身構えた。
古い木戸を開けるような車輪と線路の摩擦音。鉄の巨体に押し出された空気が津波のようにやってくる。
ぷしゅー、と停車すると、降車するまばらな人の雑踏がばらばらと響いた。
予期したような悲鳴も、凄惨な衝突音も、まき散らされる血しぶきも、そこにはなかった。
まったくもって、何事もなかったかのように、夜が動いている。
わたしはあっけにとられていたが、閉まりそうになる電車の扉にはっと正気に戻って、慌てて隙間に体をねじこんだ。
貸し切り状態の電車のなか。席に座って考える。
――あの女の子はどうなったのだろう。
轢かれたはず。その瞬間は目撃していないが、線路に落ちて、間を置かずに電車がきて、ひらりと躱したなんてことがあるだろうか。そんな忍者でもあるまいし。もしくは、彼女が轢かれたことを、誰も気がついていないのか。駅員さんに言ったほうがいいかな。けど、何の音も、血の跡もなかった。
――まぼろし?
疲れてたから見間違えたとか。けど、いくら疲れているからといって、幻覚ってあんなにはっきりしているものなのかな。いままで幻覚なんて見たことがないからわからない。
考えているうちに、目的地に着いた。わたしは降車して帰路につく。おでんを買うのも忘れて、その日はすぐにベッドに入って眠ってしまった。
次の日。すこし調べてみたけれど、事故があったというニュースはどこにもなかった。
しばらくして、街でこんなうわさを聞いた。
頭の片隅でずっと気になっていたからだろう、前を歩く二人組の学生たちの話に自然と耳が吸い寄せられていた。
「電波ちゃん、って知ってる?」
「なにそれ」
「幽霊」
「へえ。不思議ちゃんみたいな?」
「じゃなくて、電波を探してるんだって」
どきりと胸が跳ね上がる。そういえば、あの子も、スマホを持ち上げて、電波を探すしぐさをしていた。
「幽霊が電波探してんの? なんで」
「それがさ。うちの学校で去年、死んだ子なんだって。で、その子はスマホを触りながら歩いててさ。そしたら急に電波が切れたんだって。でさ、でさ。電波を探して、ふらふらってよそ見して歩いてたら、車に轢かれて死んじゃったんだよ」
「ふうん。それで死んでからも電波を探してるってこと?」
「そうそう」
「そんなことある? さすがに車に気がつかないほど夢中になって、電波を探さないっしょ。教育指導の先生が考えたヤツなんじゃないの? 歩きスマホすんなって口うるさいし」
確かにありそうだ。と、わたしは心の中で勝手に会話に加わってうなずく。歩きスマホはダメ、と直接言うより、こういう学校の怪談みたいにして話すのは効果的かもしれない。
「それなら電波を探してるとかいう設定無駄だし、必要ないでしょ」
そう思わせて信憑性を高めるための設定かもしれないじゃない、と、わたしは思ったが、
「たしかに」
と、もう一方の子はあっさり納得してしまった。そもそも話の真偽など、どうでもいいという感じだ。
「で、その電波ちゃんってなにかしてくるの?」
「なにか、って?」
「よくあるじゃん。会ったら死んじゃうとか。毒電波でビリビリ―ってやられるとかないの?」
「電波ちゃんは電波探してるんだから、自分で電波出せたらその必要ないじゃん」
「そりゃそうだ」と、ふたりは笑って、
「でも電波ちゃんに会うと電波が切れちゃうらしいよ」
「えー。それって、じゃあ、やっぱり、死んでからもずっと電波がない場所をさまよってるって感じなのかなあ」
「ねー。かわいそうだよね」
「あたしだったら、三十分電波がつながらないだけで頭おかしくなっちゃうよ」
ふたりの手にはいまもスマホがにぎられている。なんだか誇張じゃなさそうな言い草。わたしも人のことは言えない。スマホが使えないと仕事に差し支える。
それから二人組の学生はカフェに入っていったので、わたしはなんだか取り残された気分になりながら街を歩いた。
――あれは、電波ちゃんってやつだったのかな。
すっかり先程の話に影響されてしまったわたしは考える。あの不可思議な体験にも”電波ちゃん”と名前をつけておけるなら、その方が安心できたのだ。
数日後、わたしはまた”電波ちゃん”に出会った。
同じ駅。ホームの同じ場所。わたしが電車を待つ定位置。
ぶるっ、と寒気がしてスマホを覗くとアンテナ表示が二本と一本を反復横跳び。
横目に見ると、隣に女の子。手にはスマホ。夜に溶けそうな真っ黒な長髪がピンと伸びた背筋にたれ落ちている。
――電波ちゃんだ。
と、わたしは直感した。
スマホはとうとう圏外になっている。
記憶の中ではずいぶん怖い体験だったのだが、再びこうして会ってしまうと、それほど恐怖心はなかった。
むしろほとんど無害とも言える幽霊に好奇心すら湧き上がって、彼女の手にしているスマホについつい視線を向けていた。
画面がひび割れている。落とした、という風ではない。歯型? のようなものがついている。
スマホの壁紙はウサギ。イラストではなく本物のウサギの写真だ。かわいい。ウサギが好きなんだろうか。あの歯型はもしかしたらウサギ? きっとそうだ。絶対ウサギの歯だ。形が同じ。二本の前歯でかじられたあと。
壁紙になっているウサギの写真の背景は室内ではなさそう。雑草やら金網が見える。学校の飼育小屋とか、そんな雰囲気。飼育委員だったのかもしれない。
スマホが持ち上げられて、左右に揺らされる。電波を探しているのだろう。
何回かくり返してあきらめたらしく、フォトアプリを開いて写真を眺めだした。
全部、ウサギの写真。その中にはすこし引いた角度のものもあった。やっぱりウサギ小屋だ。三、四匹のウサギがもふもふと身を寄せ合っている。雪のように白い指がすいっと横にスライドして、別の写真がスマホに映る。閉じられた小屋の扉。金網でできたその扉の向こうに誰かが立っている。友達だろうか。猫背で金髪の、いかにもやんちゃそうな女の子だ。ズーム。ひどく愉しそうに笑っている。なにがそんなに愉しいのか。馬鹿笑いだ。それを覗き見していると、学生時代はなんでも面白かったなと、ふいに郷愁が襲ってきた。
電車がきた。
電波ちゃんが足を踏み出す。
一歩。
二歩。
線路に落ちる。
轢かれる。
でも幽霊だから、すり抜けるのだろう。
と、思ったけれど、わたしは反射的に手を伸ばしていた。
「あぶないよ」
無意識の行動だった。
どうせ今回も手は届かないに違いない。
そのはず、だったのだが、わたしの手は制服の肩に触れていた。
「えっ?」
と、言ったのは電波ちゃん。
けど、ふり向いた顔は電波ちゃんではなかった。
さっき写真に写っていた子だ。金髪のやんちゃそうな子。
ごおっ、と電車と一緒に強風が吹いてきて、わたしと金髪の子は同時にのけぞった。
「あっぶね」と、その子は言って、助けたわたしを不審者でも見るようにねめつけた。
電車が止まる。扉が開いて、まばらな乗客が降車してくる。
「はなしてもらえます?」
とがった声。わたしはその子の肩を力いっぱいつかんでいたのに気がついて、急いで指を開く。
肩がぱっぱっと払われて、金髪を夜に輝かせながらその子はさっさと電車に乗り込もうとした。
わたしは、遠ざかる背中に声をかけずにはいられなかった。
語るべき言葉など持っていなかったはずなのに、あらかじめ録音されていた内容が再生されるみたいに、自然と喉が動いていた。
「ウサギ小屋に人を閉じ込めたりなんかしちゃダメだよ」
その子はものすごい勢いでふり向いて、真っ青な顔に満月よりもまん丸な瞳を浮かべた。
「なんで……」
わたしだって自分がなんでそんなことを言ったのかわからなかった。気がついたときには、勝手に口をついて出ていたのだ。
その子は逃げるように電車に駆け込む。わたしも電車に乗り込んだ。同じ車両に座っていたので、突き刺さるような視線を何度も向けられた。わざわざ車両を移動するのも、なんとなくはばかられたのでそのままでいたが、わたしは仕事帰りだというのにゆっくり休むヒマもなかった。
それから、わたしの前に電波ちゃんが現れることはなくなった。
あの金髪の子がどうなったのかもわからない。
この推察は間違っているかもしれないが、わたしが想像しているのは、彼女はウサギ小屋で死んだのではないかということだ。助けを呼ぼうにも電波がつながらなかった。
電波が見つかれば彼女も成仏できるのだろうか。
都市開発が進むと怪異なんかはいなくなると言うが、ある意味では電波ちゃんも同じだろう。この田舎町が電波で満たされれば、幽霊である彼女にも届くようになるかもしれない。
わたしは、そうだといいのだが、と想像の翼を広げながら、ただただ死後の安らぎを願うことしかできなかった。




