第525話 一冊の本
ぼくは喫茶店の店長。店員はおらず、ひとりきりで切り盛りしている。こじんまりした喫茶店に来るのは顔見知りのご近所さんばかり。変わり映えのない日々。それでも、自分ひとりが暮らすには十分な収入があったし、ぼくは現状に満足していた。
いつもは数えるほどの来客しかないそんな店だが、その日はちがった。どうも近くで催し物が開かれているらしく、観光客がわんさと店を訪れたのだ。
ここいらは閑散としたもので、ほぼ住宅街という町並み。ぼくの店以外に腰を落ち着けて休憩できる場所は多くない。加えて、この店は三叉路に建っていることもあって、立地に関してはかなり目立つ位置にあった。
めずらしく目の回るような忙しさ。自慢のコーヒーはともかく、軽食メニューのサンドイッチに使うパンやらタマゴやらがすっかり足りなくなってしまった。なので、コーヒーしかお出しできません、というはり紙をしなければならなくなった。
そんなこんなで激しかった混雑であったが、陽がかげる頃には徐々におさまり、波が引くようにさっと客は消えてしまった。
客がいなくなって、急に冷え込んできた店内をぼくは見わたす。
祭りのあとの寂しさのようなものがこみ上げてくる。
コーヒーの薫りが染みついた木の椅子や壁たちが、いつもよりすこしはしゃぎつかれているようにも見えた。
ぽつん、と、ざわついた心を抱えたぼくは、ふきんを手にして、テーブルの木目をなぞるようにピカピカにみがいていった。客が置いていった紙屑や、土の汚れなどもきれいに払っていく。
さいごのひとつのテーブルに来た時、隅の椅子に置かれているものに視線が引きつけられた。
忘れ物のようだ。
一冊の本。
文庫本。
ふたつ並んだ椅子のひとつに置かれている。片方に腰かけて、もう片方に荷物を置いていたのだろう。そして、そのまま忘れてしまった、というのが想像できる。
きれいな紙のブックカバーにおおわれたそれを、ぼくは拾い上げて、ぱらぱらとめくってみる。
恋愛小説のようだ。
どんなひとが、忘れていったのだろう。
ぼくはちょっとした探偵気分になって、なんだか胸がわくわくしてきた。
きょうははじめてくるお客さんばかりで、そのひとりひとりの顔などは一切覚えていない。
この席に座った客もたくさんいたので、記憶を探っても思い当たる人物はいなかった。
とりあえず、そのテーブルを清掃すると、本を手にカウンターの内側へと戻る。
そうして、あらためて本を眺めた。
ブックカバーを外してみる。表紙がかなり傷んでいる。なかのページは日に焼けていて、くり返し読み込まれていることがわかる。
けれど、それにしてはブックカバーの紙はかなり新しいものだった。書店で本を買った時に包んでもらえる紙、といった風。よく見るとブックカバーには折り目を伸ばして、また別の箇所を折った形跡がある。つまり、大きさの違う別の本につけてあったブックカバーを外して、この本を包むのに使ったということだろう。
ページをめくる。
いくつかのページにドッグイヤーのあとがあった。けれどそれはすべてまっすぐに伸ばされていて、きちんとしおりも挟んである。
もしかしたら、この本は古本屋で買ったのかもしれない。前に読んでいた人物はしおりを使わずにドッグイヤーで済ませる性格。いまのこの本の持ち主は、しおりを使っている。
と、思ったが、古本にしては値札がはられていたり、値段が書かれていた形跡がない。だったら、貰い物か。両親や、祖父母に貰った、とか。
そんな風に本のことばかりを考えていると、陽が沈み、閉店時間になっていた。
ぼくは重厚な木材で作ったこだわりのカウンターから離れて、曇りガラスがはめ込まれた扉から外に出ると、表の看板をCLOSEにしてから店内に戻り、扉を施錠した。
この店は住居を兼ねていて、二階が住居スペースだ。
誰かの忘れ物である本を片手に二階に上がると、就寝の準備を済ませて、疲れた体を横たえる。
夢で、本の持ち主に会った。
けれど、目覚めたぼくはその人のことをまるで覚えていなかった。
それからというもの、ぼくの意識はその本に囚われてしまっていた。
空いた時間があると、本を眺める。
ページをめくる。
本からは花畑に似たうるわしい薫りがした。
ぼくの頭のなかで赤と黄色の花が咲き乱れる美しい光景が描き出される。そんなところでコーヒーを飲んだら、さぞかし素敵な気分になるだろうという場所だ。そこで花にうもれるようにして座って、本を読む女性。
そう、この本の持ち主は女性だ。
というのには根拠がある。
髪だ。ページに一本の黒髪が挟まっていた。かなり長い。前髪あたりの髪だと思うが耳にかかるぐらいはある。長髪だったのだろう。
なにもぼくは長髪イコール女性という短絡的な考えによって答えを導き出したのではない。
決め手は味、そして薫りだ。
コーヒーなどという味、薫り共に精妙な商品を扱っていると、自然と味覚も嗅覚も肥えてくるというもの。ぼくは舌と鼻には自信がある。この髪を噛んでみたところ、その味といい薫りといい、女性用のシャンプー、そしてコロンの風味がした。
髪の水気や強度の程度からしてまだ若い。二十代から三十代といったところか。
ぼくは本について考え続けた。
指紋を採取してみる。両手の指紋が採取できたが、右手の親指の腹にタコのようなものがあるみたいだ。右利きなのだろう。そしてこれはペンダコだ。よくペンを握っているに違いない。事務作業もしくは、それに類する仕事か。パソコンのキーボードの打ち込みではなく、わざわざペンを握っているあたり、学生の可能性が高いかもしれない。二十代前半。大学生だ。
指紋を照会してもおそらく誰かはわからないだろう。犯罪などに手を染めている女性では絶対にない。これは願望混じりではあるが、そんな気がする。
ファンデーションが残っているページもあった。成分を解析してどこの商品か調べてみる。有名化粧品店のファンデーションのようだが、全国に流通している商品なので手がかりにはならない。
一枚一枚ページを探っていく。
それと共に本の内容にも目を通す。
ぼくはあまり小説など読まないので凡庸な内容に思えてしまう。
けれど胸躍る感覚もあった。
題名を聞いたことはないが、名作なのだろう。
日々が流れていく。
ぼくは日がなページを読み進め、そこにある痕跡を嗅ぎまわった。
ついに最後のページ。
「あっ」
思わず声がもれた。
虫が挟まっている。
偶然に、本が閉じられたときに囚われて、押し花となってしまったのだろう。
琥珀に閉じ込められた過去の幻想のように、それはさんぜんと輝いて見えた。
その虫は、蚊だ。
ぼくはその蚊に残されていたかすかな血液からDNAを採取して、彼女の複製を試みた。
成長促進剤を使うと、彼女は見る間に成長して、あっという間にぼくが想像していた通りの年齢にまで到達した。
やさしげな瞳をした、心をなごやかにしてくれそうな女性。
ぼくはついに辿り着いたのだ。
この本の持ち主に。
わたしは一年ぶりにとある町を訪れていた。去年から開催されている地域活性化を目的とした催し物、それに参加するために。
緑豊かな自然に満ちた田舎町は都会での疲れた生活を忘れさせてくれる。
大学院での勉強ばかりで凝り固まった肩も、排ガスにまみれていない爽やかな空気で癒されていく。
三叉路に建つ喫茶店。去年もここで休憩をした。大変な賑わい。席が八割方うまっているが、隅の方が空いていたのでそこに腰かける。去年座ったのもここだった気がする。店員は見当たらない。注文したいが、忙しそうな店長に声をかけるのはすこしためらわれる。
そうして躊躇していると店長のほうからわたしに気がついて、注文をとりにきてくれた。
「いらっしゃいませ」
ご注文は、と続くかと思ったら、そうではなく、意外なものを差し出された。
一冊の本。
わたしがどこかで失くしたと思っていた本だ。
「これは?」
と、たずねると、
「あなたのお忘れ物でしょう?」
「そう、だと思います、けど」
おずおずと受け取る。失くしたときのままだ。おばあちゃんから貰った本。大事なものだったので、失くしたのに気づいたときにはずいぶん落ち込んでしまった。
「よくわたしの物だってわかりましたね」
感心と驚きを入り混じらせながら言うと、店長はくすりと笑って、
「もちろんです。それで、ご注文はなんにしましょう」
わたしは去年と同じコーヒーを頼んだ。
「かしこまりました」
店長が去っていく。
客商売では、客の顔を全て覚えている人などがいるらしいが、彼もそういう類の人なのだろうか。
そんなことを思っていると、カウンターの隅から店員が顔を出した。
その顔は、わたしそっくりで……。




