第521話 レッドホール
「博士! 太陽が沈んでいます!」
助手が騒がしく靴音を鳴らし、研究室に飛び込んできた。
「はあ? なにを言っとるのかね」
言いながら博士は窓の外に向けた目を細めて、陽の光に目を焼かれないように、手元にあった薄い紙をはげ頭の前にかざした。太陽は空高く。沈んでなどいない。だいいちいまは真っ昼間だ。まだ太陽が沈むような時間ではない。
「ふざけたことを言ってないで、仕事をしたまえ」
あきれ声。しかし助手は興奮冷めやらぬ様子。目をむいて、眉間に小高い山をつくり、わめきちらした。
「博士! 落ち着いてる場合じゃないですよ」
「いやいや。君。ちょっとは落ち着きなさい」
博士は四角い窓枠に切り取られた陽の光を横目に見て、
「まだ昼間だよ。寝ぼけてるのかね」
と、席に戻ろうとした。助手は博士の白衣をがっしと掴んで、ふり返らせると、天体望遠鏡で撮影された写真の束を差し出した。
どれどれ、と博士が写真に目を通す。
それは、太陽に見えた。他の星との位置関係を見る限り確かに太陽だ。しかし、その天体はどこかおかしい。なんだか歪んでいる感じがする。写真をめくる。次の写真では歪みが強くなっている。そして、さらにめくっていくと、最後には沈み込んで、裏返ってしまったではないか。
風船をふくらませたまま外と内とを逆にしたという具合。それでいて裏返った太陽には実体がない。まるで穴。ブラックホールだ。
「な、な、なんだねこれは!?」
「太陽が沈んだんですよ」
いくぶんか冷静になった助手が言うと、今度は博士に興奮が乗り移ったように、
「これは一大事だぞ! いや……」と、あらためて窓の外に浮かぶ太陽に視線を投げかける。普通に見ている限りでは、異変はなにも読み取れない。
「しかし……、特になにも起こっていないようだな」
外にあるのはいつもと変わらぬ昼風景。研究所の前の道路は昼食をとろうと道をいきかう会社員であふれている。うだるような暑さにうらめしそうに太陽を見上げる者もいる。車は信号に制御されて真っすぐに走っては止まり、たわいもない宣伝文句がどこかのビルのスピーカーからたれ流されている。
「そうなんです。なにも起こっていないんです」と、助手。
「ふうむ」博士は首を傾げて「重力場、熱や光の放射、その他諸々いずれかにでも変化があれば我々がこんな風に地球上でのんびりしていられるわけがない」
「そうです。単に太陽という球が、穴になったという次第でして」
「穴、穴ねえ」
博士はあらためて写真を眺める。真っ赤な穴。横から助手も博士の手元をのぞき込んで、
「さしずめレッドホール、と言ったところですかね」
「ブラックホール、ホワイトホール、そしてレッドホール、か」
助手は我ながら名命名だと得意顔。そんな隣で博士はうんうんと考え込みはじめた。
「ホール化現象とでも名付けようか。しかしブラックホールは光すら捕らえる超重力の天体なわけだが、このレッドホールは赤熱して光を放射している。どちらかと言えばホワイトホールの性質に近いが……」
「なら出口側ということなんでしょうか。ブラックホールはワームホールを通じてホワイトホールに繋がっているというのが、一般相対性理論のアインシュタイン方程式を解いた結果として示唆されていますが」
「その通りだ。ガンマ線について確認はしたかね? ガンマ線バーストは?」
「いえ」と、言う助手に、博士は「なにをやっとるのかね!」と一喝。
即座に助手は「すぐに確認をとります」と、研究室から出ていった。
博士はがっしりと腕を組んで、床に落ちる太陽の光を見下ろしながら、深々と椅子に腰をおろした。
「レッドホールか……」
ひとりごちる。赤い穴。これにも対となる穴があるのだろうか。ブラックホールとホワイトホールのように。赤と言えば対は青だが。ブルーホール。そんなものがどこに……。
と、博士は足元が揺れるのを感じた。
なんだか、地面が沈み込んでいるような……。




