第503話 天国を失った動物
《天国へ行く方法》
1.ヒトに飼われないこと
2.ヒトに育てられないこと
3.ヒトに殺されないこと
イヌは静かに涙した。
ああ、なぜぼくは、いやいや、ぼくだけではない、イヌという種族は、こんな運命をたどってしまったのだろうか。
ぼくらは天国を失くしてしまった。
せいいっぱい生きて、せいいっぱい死ぬ。たったそれだけで、あとはストンと落ちていくだけだったはずの場所は、濡れた鼻先のひとしずくですら届かない場所になってしまった。
しかし、ぼくはヒトから離れて生きていくすべを持たない。おのれの残酷な運命のレールの行く末を知ってなお、トロッコから飛び降りることもなく、ただマテとオスワリを続けるおろかものでしかないのだ。
ぼくに天国へ行く方法を教えてくれたのはノライヌじいさんだった。
ノライヌじいさんは言った。
「わしゃあもうすぐおっ死ぬが、そのまえに若いもんに教えてやらにゃあ気がすまんでな」
「はあ。なんでしょう」
ぼくはノライヌじいさんの毛の一本一本のうすぎたなさに気を取られながら、耳をピンとそそり立てた。
「おまえさんは天国っちゅうもんを知っとるかい」
「ええ。死んだらぼくらのたましいが行くところでしょ」
ノライヌじいさんはヘッヘッとわらって舌をたれさげた。
「ほうほう。まあそんなとこだ。だがなあ、ヒトにはヒトの天国、イヌにはイヌの天国があって、それらはまったく別の場所なんじゃよ」
「そうなんですか」
ぼくはだからなんだと思っただけで、この話の重要性をこのときはぜんぜん理解していなかった。
「おまえさん。ヒトに飼われておるじゃろう」
ぼくはうなずく。
「イヌの天国に行くにはおやくそくがあるんじゃよ。まずひとつ。ヒトに飼われないこと。ふたつ。ヒトに育てられないこと。みっつ。ヒトに殺されないこと」
くだらない、と思ったけれどくちには出さずに、ぼくはただただしっぽをとんがらせただけだった。けれど、ノライヌじいさんはぼくのしっぽの具合から、ぼくの機嫌を読み取ったらしく、こびるみたいな視線を向けて鼻先をさげた。
「かわいそうにのう。ほんとうにかわいそうじゃ」
「あなたに憐れがられるいわれはありませんよ」
プイとそっぽを向いてやる。けれど悪魔がささやくみたいな声はとまってはくれなかった。
「さっき言ったおやくそくをやぶると、イヌの天国じゃあなく、ヒトの天国に連れていかれるんじゃよ。そりゃあもうイヌにとっては堪えがたいような場所じゃ。あらゆるものがヒトのためにある場所。イヌのためのくさはらも、あなぐらも、水浴びできる泉だってありゃしない」
「でもヒトの天国に行けば、そこでもご主人と一緒にいられるわけでしょう」
ぼくが言うとノライヌじいさんはガッハッハとおおわらいしはじめた。そのわらいにこもった侮蔑の色は、ぼくが思わず牙をむいて遠吠えをあげそうになるほどだった。
「ご主人、ご主人か」
「なにがそんなにおかしいんです」
「なんにも知らないおチビちゃん」
ノライヌじいさんはうたうように言葉をつむいだ。
「ヒトの天国。ヒトのたましい。イヌのたましいひきつれて。天国でだってイヌを飼う。そうして自分をなぐさめて、イヌをなぐさめたりはしない。イヌにゃあ地獄じゃ。イヌにゃあ地獄じゃ」
「帰ってください!」
ぼくは吠えたてた。するどい威嚇にノライヌじいさんはキャンと鳴いてとびのいたものの、すぐにニタニタとくちもとをゆるめて、
「わしゃあ勝ったぞ。天国に行くぞ」
と、くりかえしながら去って行った。
次の日。ノライヌじいさんはトラックにひかれて死んでしまった。ヒトに殺されたのだ。
ノライヌじいさんはすこしお節介すぎるところがあったけれど、わるいイヌではなかった。きっと地獄ではなく天国に行くだろう。じいさんの言う通りならヒトの天国へ。
ヒトに飼われているぼくならまだしも、ヒトに飼われていなかったノライヌじいさんにとって、ヒトの天国に行くのはとっても苦しいことだろうと思った。
ぼくはなにもノライヌじいさんが言っていたことを鵜呑みにしたというわけではない。けれど、じいさんの死に際して、どうしても天国というもののことを考えずにはいられなかった。
おサンポのたびにおサンポ仲間のイヌたちに天国のことを聞いてまわった。すると、ノライヌじいさんが話していたようなうわさを幾度となく耳にすることになった。
本当に、ヒトの天国、イヌの天国、それぞれの天国があるのだろうか。
いや、あるに違いない。
ぼくはそんな風に考えるようになっていた。
ぼくはもうヒトに飼われている。生まれたときから飼われている。そしてヒトに育てられた。もしまだ間に合うとしても、ヒトの手から離れて暮らすなんて考えられない。もしできたとしても、ノライヌの運命など、じいさんと同じく車にひかれて死んでしまうか、炭酸ガスでの殺処分が関の山。運が良ければ引き取り手などが見つかって、ヒトに飼われ、育てられる立場に逆戻り。
イヌの天国に行くことなどできないのだ。
ぼくは沈みがちになってしまって、ご主人などはたいへん心配してくれた。ありがたいが、そうして大好物のリンゴなんぞを薄くスライスしたものをもらったりするたびに、イヌの天国が遠のいていく足跡が聞こえるようであった。
近所のおサンポ仲間たちもすこし様子が変わっていった。ぼくがひどく気にしていたからだろう。不安が伝染し、ナイーブな気分になってしまったようだった。ぼくらは集まり、しりの匂いを嗅ぎあったり、鼻先の濡れ具合をたしかめあったりしながら、どうしたものかと頭をひねった。
そうして知恵を出しあった末に、ひとつの結論にたどりついたのだった。
「ねえ。おかあさん」
ヒトのこどもが居間のソファを指差した。テレビには高原が映し出され、のんびりとした田舎暮らしをリポーターが紹介している。
「あれ見てよ」
ヒトのおかあさんが目を向けると、そこには片ひじをついてソファに横たわり、ぼんやりとテレビを見ているイヌ。
「休みの日のおとうさんみたいね」おかあさんが言うと、
「人間みたい」と、こどもがわらう。
「きっとあの子、自分を人間だとかんちがいしてるんじゃない」
「そうかも」
そんな会話はあらゆる家庭でおこなわれていた。
まるでヒトのような態度をとるイヌ。ヒトと同じものを食べたがり、ヒトのこどもを自分のきょうだいのようにあつかい、果てはガウガウガウと鳴き声で、ヒトの言葉をマネしたりもする。
イヌのヒト化は確実に広がっていた。
イヌはヒトになろうとしていた。もはやヒトの天国に行くことはさけられない事態。そこがイヌにとっての地獄なら、おのれがイヌでなくなればいい。おのれがヒトになればいい。ヒトの天国は、ヒトになったイヌにとっては、天国にちがいないのだから。




