第499話 船幽霊
海岸に人だかりができていた。白々としたまばらな髪が散らかった頭が、白菜畑のように並んでいる。
通りがかった男が首を伸ばしてのぞき込む。人垣の向こうでは、青白い顔をしたぶよぶよの老人が横たわっていた。
「どうしたんです」
男がたずねる。枯れた瓜に似たしなびた頭がのひとつが振り返って、しわで窪んだ眼をまたたかせた。
「どざえもんだ」
風がそよぐような声が教える。水死体からプンと臭気がただよって、男はギュッと顔をしかめた。
「事故ですか」
「うんにゃ」
ポキリと折れてしまいそうな細い首があかべこのように振られて、
「船幽霊さあ」
ヒヒと乾いたわらいを口の端からもらした。
「船幽霊というとあれですか。柄杓をくれと言って、わたすと水を汲んでは船に入れて、沈没させるという」
手ぶりで水をすくう動作。
うなずき。
男はフウンと鼻を鳴らす。
「その船幽霊がこの海に出るんですか?」
うなずき。
「海にゴミ捨てるってんで、塩っからい水に溶けた魂が怒ってんのさ」
「ほう」
「こいつも」スポンジのようにふくらんだ死体があごで指される。
「海を汚してた悪人だ」
けたたましいサイレンの音が背後から聞こえてきた。救急車からのっぺりとした白い服がぞろぞろと出てきて、物言わぬ水風船を担架に乗せて運んでいく。
それと同時に波が引くように人垣は崩れて、いずこかへと去っていった。
ポツリと取り残された男は海を眺める。
夜、男は木船をひとつ借りて海に出た。
櫂を揺らして沖へと向かう。
月だけがポカンと浮かんでいる他には星一つない寂寞とした夜空。風は凪いで、水面はのっぺりとした土塊とも見まごう闇の野原となっている。
影のなかからヌウッと細い紙切れがあらわれた。よくよく見るとそれは骨に青白い肌がはりついた腕であった。
「柄杓をおくれ」
かすれた声なのだがズウンと耳の奥に染み込んでくる。
男はハハアこれが船幽霊だなとまじまじと観察して、それから前もって用意していた柄杓を海に投げ入れた。
「柄杓をおくれ」
もう一本、腕があらわれる。それにも柄杓をくれてやる。
「柄杓をおくれ」
ずいぶんとたくさんいるようだ。けれど男もたくさん柄杓を持参してきたので、願ったり叶ったりというもの。
船幽霊の腕たちは海から生えた枯れ木の如くに乱立し、手に手に柄杓を掲げては黒々とした夜を映した海水を汲みはじめた。
すくっては船へ。すくっては船へ。
けれど船のなかに水がたまることはない。男が船幽霊に渡した柄杓は底が抜いてあった。すくってもすくっても水は柄杓からこぼれて海へと還っていくばかり。
木船のまわりに集まって、無為な動作をくりかえす船幽霊たち。男は篝火をゴウゴウと焚きはじめた。海が明るく染まり、タールのようにつやめいた。
パシャリパシャリと水がはねた。小魚が光に惹かれて寄ってきたのだ。
男が用意した柄杓というのは底が抜いてあるばかりではなく、抜いた底に網をはりつけてあった。船幽霊が網のはられた柄杓で水を汲もうとすると、そのなかには小魚が残るという具合。その小魚はすくいあげられ木船のなかへ。
活きのいい小魚たちでたちまち木船は一杯になり、足元でビチビチと跳ねまわった。男はホクホク顔をして、大漁大漁と上機嫌で港に戻った。
それから毎夜、男は海へと漁に出た。漁と言っても男がやるのは柄杓を海に投げ入れるだけ。あとは篝火を焚いていれば、寄ってきた魚を船幽霊が勝手に木船へと放り込んでくれる。船幽霊に渡した柄杓は返してもらうわけにもいかないので回収できない。だから毎回用意する必要があったのだが、それでも十分な黒字となるぐらいには、たくさんの魚が手に入った。
そんなことをくりかえし、男はなかなかの小金持ちになった。大きな船を手に入れて、よりいっぱいの魚が積めるようになった。
ブルンブルンとモーターを鳴らし、男は今日も漁に出る。
その日は流れがグルグルと湾曲している妙な潮加減であった。渦のなかに入り込んだが、立派になった男の船はびくともしない。変わらず船幽霊があらわれるのを待って、「柄杓をおくれ」とやってきた手にいつものように柄杓を渡してやった。
男はもう慣れたもので、波に揺られて余裕のうたた寝。寝ているあいだも船幽霊どもが働いてくれる。無給無休の船員だ。
グウグウグウと静かな海に男のいびきがこだまする。鼻ちょうちんを呑気に浮かべて、夢にどっぷり身を浸す。夢では大漁の魚に囲まれて、億万長者なった男が高笑いをしていた。
不意に船が沈みはじめた。
柄杓が水汲み、船のなかへ。
柄杓が水汲み、船のなかへ。
柄杓の底はたしかに抜かれて網にはりかえていた。そんな柄杓では水はすくえないはずであった。
けれども、男の船のまわりにはたくさんのゴミが浮いていた。男がいままで投げ入れた柄杓の残骸。それが柄杓の網目をふさぎ、ぴったり水漏れを防いでいた。
トロリトロリと水が注がれ、船がカタリと傾いていく。
男のひざが水に濡れて、腰、肩、首を呑み込んでいく。
ツルンと船は夜に消え、ただ海だけが残された。
その後、船は海岸に流れ着いて、前と変わらぬ人だかりができた。
船には大量の柄杓とゴミ。そして、ゴミに潰され、水でふくれた青白い顔の男が乗せられていた。
 




