第496話 感覚の先へ
博士は世界平和を目指して、とある薬の研究をしていた。
シャーレに乗ったひとしずくの薬液に顕微鏡が向けられる。博士の視覚は顕微鏡の先っぽにまで拡張されて、微細な連続花火のような化学反応が視界いっぱいに広がった。
お次は針ほどの細さのピンセットを操って極小の薬品をシャーレに運ぶ。博士の感覚は針先に集中し、かすかに震えを残しつつ薬品が投入される。すると、また新たな化学反応が引き出され、顕微鏡の向こう側では極彩色の爆発が巻き起こった。
博士はひとしきり反応を確認すると、顔を上げてフウと息をついた。それから実験器具が並んだ机から離れてパソコンの前に座る。今回の実験結果を入力すると、これまでのデータの推移をじっくりと眺める。電子ネットワーク上にある無数のデータは博士の脳の一部といっても過言ではなかった。記憶領域の拡張。自由自在に取り出され、組み替えられる情報を処理して、理論が組み立てられていく。
時計を確認するともう陽が暮れていた。深夜になると研究所は閉められる。警備担当にどやされる前に出なければいけない。
慌ただしく実験器具を片付けると、くたくたになった革のカバンひとつを手にして建物の表にある駐車場へ向かう。頭のなかはまだ研究のことでいっぱいだった。明日はどんな実験をしようか。懸念点を洗い出して、問題は早めにつぶしておかなければ。足が交互に前に出て、規則正しく腕が振られる。無意識の動作。けれど決して転んだりはしないし、壁にぶつかることもない。
駐車場に行くと自分の車に乗り込む。ほのかにくすんだグレーの乗用車。博士は特に車にこだわりを持ってはいないが、この車のことはとても気に入っていた。なにせいまの研究をはじめるきっかけとなったのがこの車なのだ。
エンジンを始動させると滑らかにタイヤが回り出す。ハンドルを操って駐車スペースから外へ。
道路に乗り出して、少しずつ速度を上げていく。
疾走感。
窓は閉め切っているが車体を撫でる風の感触が伝わる。四輪が駆動する回転を感じる。隣を駆ける車の息遣いが聞こえる。
この瞬間、博士の感覚は車と一体になっていた。
人間の感覚というのが簡単に肉体を超えて拡張されることに気がついたのはこんな風に車を運転している時であった。
意識すると拡張された感覚はそこかしこにあった。傘を差している時には広げられたビニールの表面にぶつかる雨粒のひとつひとつを感じた。ハサミを握っている時には刃が指の代わりになっていた。服は皮膚に他ならなかったし、ブーツは足よりも足の役割を果たして大地の感触を伝えてきた。メガネは目の一部であり、これから先の人生において一生の付き合いになる。差し歯もそうだ。差し歯でも他の歯と同様に食感を得ている。カメラのファインダーを覗いている時は、カメラ自体が己の目となっている。
操る道具というのは肉体の一部になる。そして人の感覚というのは肉体に依存する。
運転をする博士の肉体は車体となっている。
もしこれが船の操縦であれば博士の体は船体になる。飛行機であれば巨大な機体の隅々にまで感覚が拡張されることだろう。
しかし、操る道具が巨大になるほど感覚の拡張は困難であった。飛行機ではきっと車ほどの一体感は得られない。しかし、もし得られれば空を飛ぶ感覚はさぞかし爽快であろうと思う。
自身の肉体の延長。肉体の一部だと思うと博士は車が愛おしくなった。丁寧に扱い、こまめなメンテナンスで廃車の危機を何度も乗り越えた。いまやもう一人の自分、相棒、魂の一部だ。
博士は思った。
人の感覚はどこまで拡張されるのだろうか。
車、船、飛行機、それらを超えた先はどこに行きつくのだろうか。
例えば国という巨大な船を乗りこなす首相。首相ともなれば国は己の体の一部なのか。国土の隅々、国民ひとりひとりにまで感覚が拡張されているのだろうか。
こんな言葉を聞いた。
宇宙船地球号。
宇宙船か。飛行機よりも大きな乗り物。人間の道具だ。
ならその操縦者の感覚は地球全体にまで拡張されるのだろうか。車の運転手と同じように。自然の痛みを感じるという人もいるが、それこそ感覚の拡張によるものではないのだろうか。
博士は感覚を拡張する薬の開発をはじめた。
感覚を鋭敏にして、どこまでも広げていく。
それが地球規模になれば、人類にとっての永遠の平穏が訪れるだろうと考えたのだ。
博士は平和主義者であったのだ。
長い時間をかけて薬が完成した。
博士はまずはそれを自分自身で試してみることにした。
動物実験において安全は保障済み。投与されたサルは非常に大人しくなることが観測されていた。平和の第一歩だ。
期待と不安で胸を高鳴らせて、博士は手のひらに乗せた薬を見つめる。血を固めたような真っ赤なカプセル。意気込みと共に口に放り込む。ごくりと喉を通っていく薬は、もはや博士の肉体の一部であった。
みるみる感覚が敏感になっていくのが実感できた。
まったく新たな感覚が押し寄せてきた。
いままで気づかなかった感覚。
自分の体を見下ろす。指を一本一本動かしてみる。ワイパーを操作しているような感覚。まぶたの窓を開け閉めする。口や鼻のダクトを働かす。耳がレーダーになり己の荒い排気音を捉えた。
博士は乗り物に乗っている自分を自覚した。宇宙船地球号ではない、自分という乗り物に乗っている自分。
自分とはなんだ。博士が意識すると自分を動かしている自分にまで感覚が拡張された。
誰だ。誰が操縦しているんだ。どこにいるんだ。
博士は探した。操縦者を。
するとブツリと配線がショートして断線してしまった。
物言わぬ博士の頭蓋の裏に亀裂が走り、爽やかな朝、窓を開放するように勢いよく開かれた。
「壊れちゃったか」
ずるりと出てきたソレは乗り物から降りて、故障箇所を探して視線を躍らせる。
「愛着あったんだがそろそろ限界かなあ」
部品交換でなんとかならないか、と考える。己の手足同然だった乗り物。ずっと使い続けていたのが急に壊れてしまった。元々旧式。長年つかってガタもきていたし、ある程度はしょうがない。けれど悲しいことだ。
新品に買い替えるか。下取りしてはもらえないかな。
ソレはフウと溜息をついて、己の愛機、人間の体にもたれかかると、まっしろな天井をぼんやりと見上げた。




