第480話 生けす
ぽこ、ぽこ、ぽこ、と小気味いい音を立てて、泡がぷかりぷかりと弾けている。
ガラスを隔てた向こうでは、人間たちが指をあちこちさまよさせながら、こそりこそりと言葉を交わしている。
「あれなんかいいんじゃないかい」
男の太い指先をたどって、女が眉間にしわを作りながら水のなかに目を凝らす。
「どれ?」
「ほら。あの赤い魚」
指名された赤魚は、それと気がつき、訓練された軍隊の如くに整列したウロコをきらりきらりと輝かせた。軍事パレードのアピールに、女がぴたりと視線を吸いつかせ、
「いやよ」
と、首を痙攣させる。
「じゃあ君はどれがいいんだい?」
男がわずかに不服そうな態度を滲ませながらも、外には漏らさないさりげなさで尋ねる。
「うーん」
赤いネイルが塗られた指が口元にあてられて、木のうろに風が迷い込んだような唸り声。
「うーん」
「……赤い魚がいやなら、あの三角形の」
「もうちょっと待ってよ」
男が言うのを遮って、女はゆっくりとガラスに近づいていくと、とうとう鼻先がくっつきそうな位置にまでやってきた。
サンゴ礁を彷彿とさせるきらびやかな化粧の真ん中にそびえる小山のような女の鼻に小魚たちが集まって、ちょっとしたにらめっこ大会が開催される。
ある魚はつぶらな瞳をくりくりと動かして愛嬌をふりまき、別の魚は流線形の体を横にして滑らかな曲線を見せつける。美しいひれをひらひらと動かす魚。赤青黄色の色彩を強調する魚。
そして、大きな口を裂けさせて、ノコギリのような歯を見せつける魚。その魚の口のなかを覗き込んだ女は、魚のマネをするみたいに大きく口を開けた。
「この魚にしましょう。見てよあの歯。ぎらぎらしていて、とっても鋭い。ノコギリそっくりだわ。絶対にあれがいい」
もうすっかり決断した、という態度で一匹の魚が選ばれた。
男は「ふうむ」と、逡巡するふりをして、自らが決定権を握っていることをほのめかしてから、従順ではないが物分かりのいい旦那という体裁を保って「じゃあそうしようか」と、頷いた。
「店員さん」
呼ばれるとすぐに分厚い作業服を着た店員がやってきて、すっぽり頭を隠す頭巾の向こうから夫婦を見つめた。
「あのでっかい口した魚。四角い顔で、ひれが短くて、青白い色をしたあいつでお願いします」
返事は会釈。音もなく店員が店の奥の垂れ幕の向こうに消えると、水中に網が差し入れられた。大口魚は自分が選ばれたのをしっかり分かっている様子で、喜び勇んで網のなかに飛び込んでいく。横入しようとした魚もいたが、それは大口魚や、別の魚によって阻止されて、百つつきの刑で咎められた。
続いて大口魚のつがいも網に入れられる。そうして二匹セットで特別な仕切りのなかに移された。
「こちらで間違いございませんでしょうか」
いつの間にか傍に立っていた店員が、しゃがれた声で確認すると、ふたつのあごがかすかに引かれた。それを見て取った店員は、会釈を返して幕へと消える。
次には幕の隙間から大きな箱が滑車のついた台に乗せられて運ばれてきた。
夫婦の目の前でぴたりと止まる。長方形の箱。箱の上面の一方には小窓がついている。夫婦は小窓を開き、なかを見て、小さな涙をこぼした。
それが終わると箱は運ばれていき、選ばれた大口魚と同じ特別な仕切りのなかに入れられた。
水中に投入されると、箱はほどけるように分解される。そのような素材で作られているのだ。
箱に納められていたものを、魚たちはむさぼり食った。
「やっぱりあの魚でよかったわね」
女が目を伏せながら言う。
「そうだな、あっという間だ。きっと苦しくなんてないだろう」
男は千々になる箱の中身を目に焼きつけるようにまぶたを押さえつけた。
食糧難を打開するため、繁殖力の高い魚の養殖事業がはじめられた。
しかし、食糧難は魚にまで波及して、魚の餌となるものすら乏しくなっていた。
それを解決するために、世界でもっとも繁栄している生き物、その死体が使われることになった。
大口魚はいま、まさにそれを与えられ、夢中になってほおばっている。
満腹になったつがいの魚たちは特別な仕切りのなかで家族を増やし、そうしてやっと人間の食料になる。
夫婦はそれを食べる権利が記された証明書をしっかりと握り締め、お腹をぐうと鳴らすのだった。




