第46話 洞の眼
私の一族がこの土地に住むようになったのは曾祖父よりも前の時代かららしい。緑豊かな山に囲まれたこの場所を気に入って、何もない野原に家を建てると、この地に移り住んだのだという。
その時建てられた家は私の代になってもいまだ現役だ。山の立派な樹を使っているから気候にも合っており、非常に丈夫で何百年でも住める、というのが亡くなった父の口癖だった。父は元々近くの村で木こりをしていたそうで、木材の選定眼には自信を持っていたし、確かなことなのだろうと思う。母が家を出て行ってもこの家に残り、男手ひとつで私を育て上げてくれた強くて優しい人だった。
夫が病に倒れた時に真っ先に思い出したのはそんな父の昔話だった。父がかつて患った奇妙な病。肌が樹の皮のようにカラカラに乾燥してざらつき、常に喉が渇いてやせ細っていく。眼球が飛び出して、太陽の暖かさだけが苦痛を和らげる慰めになる。まさしく今現在、夫を蝕んでいる病そのものであった。
病院を転々としたが夫の容体は一向に良くならなかった。夫の実家からは海外の設備が整った病院に入院するよう勧められたが、私は反対を押し切って夫をこの家に連れ帰り看病することにした。夫の治療を諦めた訳ではない。もはや医学には信用が置けず、別の可能性に賭けることにしたのだ。
昔、父が語ってくれたところによると、この奇病を治したのは母が家の裏山から採ってきた木の実だったのだという。その木の実は胡桃ぐらいの大きさの丸い実で、割ると中にはたくさんの種が詰まっており、その種をすり潰して飲んだ、と言っていた。
私はその木の実を探すことにした。それしか夫を救う手立てはないのだという確信めいた予感に私は突き動かされていた。
山を登り始めて随分と時間が経った。長く伸びていた影は一度短く足元に落ち、茜色に染まりながら反対方向に伸び始めている。山奥に進むほど緑は濃くなり、一歩前に進むのも一苦労だった。辺りの植物を注意深く観察するが、それらしい木の実は全く見当たらない。
私は疲れ果て、ひときわ巨大な樹にもたれかかると、ずるずるとずり下がってそのまま座り込んだ。背中を優しく支えてくれている大樹からは、青臭さと甘酸っぱさが入り混じったようないい香りがした。その匂いは私の心の奥底を仄かに刺激して、不思議と懐かしさが湧きあがった。
「おいで」
声が聞こえた。私は驚いて跳び上がるようにして立ち上がった。慌てて辺りを見渡すが人はおろか動物や虫の気配すら感じられなかった。
「おいで」
男とも女とも判別できない声。囁くような、響き渡るような、明瞭ではないけれどはっきりと聞き取れる声だ。私は大樹を見上げた。夕日を浴びて燃えるように輝く葉に目を細めると、幹に沿わすように視線をゆっくり振り下ろした。
「おいで」
大樹にぽっかり穴が空いている。丁度私の胸辺りの高さ、握りこぶしほどの大きさの樹の洞だ。声はその洞から聞こえてくるようだった。
「…あの、樹の中に、いるんですか」
奇妙なことだが私はその洞に向かって話しかけていた。そこに何かがいるということを信じて疑わなかったし、それに対する恐怖もなかった。何故かは自分でも分からないが、樹から漂う懐かしい香りの所為かもしれなかったし、その声色があまりに優しかったからかもしれなかった。
「あげるよ」
と、洞の中から声が響いた。その言葉は私の心を揺さぶり、「何を?」と聞く前に探している木の実の事が頭に浮かんでいた。そんな私の考えを見透かしているかのように洞は更に言葉を継いだ。
「木の実あげるよ」
あっさりと言われたことに思考が追い付かず、思わず「えっ」と声が漏れた。そんな私の様子など意にも介していないように、洞からは誘うような言葉が繰り返し漏れ出てきた。
「おいで、手を伸ばして」
私は見えない糸で操られるようにふらふらとぎこちなく大樹の傍に歩み寄った。目の前には洞があり、その中には深淵が広がっている。そっと覗き込んでみると闇の中にぎょろりと眼が浮かび上がって、私の瞳を見つめ返した。私は驚いて一瞬身を引いたが、すぐにまた洞へ顔を近づけた。その眼が温かく私を見守っていることに気がついたからだった。
私たちは見つめ合った。そうすると私たちの間には不思議な絆が生まれたような気がした。
「入れて」
言われるままに洞の中に手を入れると、ねっとりとした空気が絡みついてきた。もしくは粘ついた液体の中に手を浸しているのかもしれなかった。本来なら気持ち悪く思うような感触であったが、私の中にあったのは全く別の感情だった。父に抱擁されているような、母の胎内に戻ったかのような心地良さを感じていたのだ。
「さあ」
言われて我に返ると、玉のようなものを握っていることに気がついた。名残惜しいような気分になりながらもそっと洞から手を抜くと、手の平の上には目玉が乗せられていた。思わず取り落としそうになったが、よくよく見るとそれは見間違いで、本当は真ん丸い木の実だった。
「ありがとう、ございます」
言葉に詰まりながらお礼を言うと、急に夫のことを思い出した。早く家に帰らなければという思いに追い立てられるようにして私は麓の方へ振り返った。すると歩き出す私の背中に向かって、
「またおいで」
と、洞から声が聞こえてきた。それは山を下り家に着くまでの間、ずっと私の頭の中で反響して、決して忘れ得ない幼き日の思い出のようにこびりついていた。
玄関をくぐるとどっと疲れが押し寄せてきた。上がり框に座り込んで山での事を思い返す。現実とは思えないような出来事であったが、手の中にある木の実が夢ではないことを主張している。
あれは絶対に人ではなかったように思える。妖怪か、樹の妖精か、それともやっぱり本当は人間だったのかと尻尾を噛んだ蛇のような堂々巡りの妄想が頭の中を駆け巡る。そんな時、覚えのある香りが辺りを漂っていることに気がついた。あの大樹と同じ匂いだ。匂いの元を探すと自分が腰かけている上がり框だった。父が山から木材を調達して家が建てられたと言っていたのを思い出して、もしかしたらあの大樹の一部が使われているのかもしれないという考えがちらりと頭を過った。
終わりのない滝のような私の思考は夫の呻き声で中断された。我に返った私は台所に移動して急いですり鉢を取り出した。木の実を台に乗せるといかにも固そうに見えたが、少し叩くと簡単に殻が割れて、中の細かな種が飛び出してきた。種をすり潰して粉状にすると、夫の元へ持って行って水と共に口に含ませた。
次の日、夫は随分と顔色が良くなっていた。食欲も出てきたらしく、私は久しぶりに料理の腕を振るって幸せな時間を過ごした。それからしばらくは夫は確かに快方へと向かっていたが、時が経つと再び具合は悪化して以前の状態へと逆戻りしていった。
私はまた山へと向かった。あの大樹の場所は覚えていなかったが、不思議と迷うことなく辿り着くことができた。大樹を目の前にした時、私の心には安堵と共に名状しがたい喜びが溢れた。大樹は数日前と全く変わらない姿でそこにあった。壁のような太い幹、雄大に広がる枝葉、大地を抉るように伸びる根、そしてぽっかりと空いた小さな洞。
圧倒されるようにして見入っていると、太い枝の一本が切り落とされているのに気がついた。やはり玄関の上がり框にはこの樹が使われているようだった。
私は洞に呼びかけた。
「こんにちは。いらっしゃいますか」
「いるよ」
洞の中から返事が返ってくる。異常な状況であるのに、私の心はそれをさも当然のように受け入れてしまっていた。まだ会うのは二度目だというのに、私の声には既に親しみのようなものが込められている。
「また木の実をもらえませんか」
「いいよ」
あっさりと了承され、私は洞の中に手を差し込んだ。ことりと手に小さな何かが乗せられる。手を引き抜くと、同じ木の実が手の平の上にあった。
「ありがとうございます」
言って、私は一方的に恵んでもらうのも申し訳ないという気持ちがふと湧き上がった。
「あの、何かお礼がしたいのですが」
と、聞いてみたが、
「また来て」
と、ささやかな要求が返ってきただけだった。
それから私は帰路についたが、あのお願いがなくともまた会いに行きたいような心持ちになっていた。
何度も木の実をもらう内に夫の体はみるみる回復していった。
大樹の元へと向かうのは日課となり、出かける時には玄関の上がり框でぼんやりとするのが習慣になっていた。上がり框から漂うあの大樹の香りを嗅ぐと気分が落ち着いた。そのどっしりした樹の塊に愛おしさすら感じていた。そしてあんなに素晴らしい大樹の枝を切ってしまった先祖を憎たらしく思った。
大樹の元に来るのはもう何度目だか分からない。既に夫の病は完治していた。木の実は必要なくなったが、ただ洞を訪ねることだけが楽しみになっていた。山に居る時間は徐々に長くなっていって、ある日大樹に寄り掛かったまま私は眠ってしまった。
目を覚ますと私の体は半ば大樹の幹の中にめりこんでいた。根が生えた様に体は動かないが、不安はなかった。度重なる逢瀬でこれこそが私のあるべき姿なのだと理解していたのだ。生まれたばかりの娘の事だけが気がかりだったが、私の父と同様に夫が立派に育て上げてくれるだろう。
ゆっくりと大樹と一体になっていく。
幼き日に別れた母の声、本当の父であり愛する夫の声が洞の中から聞こえた。