第456話 さまよう鎧
その闘技場には最強の剣闘士と呼ばれる者がおり、数多の獅子や虎を屠っては、猛獣の紅い血でリングを染め、観客たちを熱狂の渦に巻き込んでいた。
どこに行っても話題になるような英雄的な剣闘士。しかし、その素顔を見た者はいなかった。
最強の剣闘士には全身を隙間なく覆う鎧と、鋭く磨き上げられた立派な剣が与えられていたが、他の剣闘士と同じく所詮は奴隷の身分。飼い主である大商人に手綱を握られている。戦う時と訓練以外は檻のなか。粗末な食事にベッド代わりのボロ布。その剣闘士は鎧や兜を脱ぐことも許されず、兜の口元の隙間から食事を流し込み、眠る時は座ったままという具合であった。鎧を四六時中身に纏っているので、最強の剣闘士は鎧の剣闘士とも呼ばれていた。
人気っぷりからすれば、不当な扱いとも言えたが、鎧の剣闘士は文句ひとつこぼすことなく闘技場で働いた。文句どころかひとことだって口をきかなかった。だからその素顔だけでなく、声も、知る者は誰ひとりいないのだった。
大商人に雇われた小男が剣闘士の世話をしていた。時間になれば食事を運ぶ。訓練の時は檻から出して、訓練場へと連れて行く。訓練場は木剣と木人形が用意された外の広場。この時には細心の注意が必要だった。剣闘士、奴隷たちに逃げられるようなことがあれば、小男の首が、文字通り切られてしまう。
剣闘士たちは、戦で国を失い、家族を失い、もう行く当てもない者たち。戦うことしか能がない。闘技場以外に生きるよるべなどない。逃げ出すなどいう愚かな考えを持った者はいるはずなかった。けれど小男は、ずっしりと重い足枷が取りつけられていても、屈強な戦士たちがいざ反逆しようと思えば、小男の細い首など木剣の一撃で折ってしまって、簡単に八つ裂きにするだろう、と想像して、来る日も来る日もびくびくとしながら仕事に励んでいた。
とりわけ怖ろしかったのは、鎧の剣闘士。いつも血の生臭い匂いをぷんぷんさせていて、兜の奥にある眼光だけが、なにかを訴えかけるようにぎらぎらと不気味に輝いていた。まともな人間には思えない。きっとこの鎧のなかは空っぽで、戦いの狂気に呑まれた人間の心がその鎧を動かし、死を求めて戦っているに違いないと小男は思った。
試合。
鎧の剣闘士は勝った。
また勝った。
その次も。
勝ち続けた。
けれど、ある日、負けてしまった。
獅子の太い腕が兜を捕らえ、組み伏せられた。
すぐに獅子の首に繋がれた鎖が他の剣闘士たちによって引っ張られ、喰いつかれる前に引きはがされたが、致命傷を負っているのは間違いなかった。
腕や首が捻じ曲がり、鎧の隙間からはどろどろと濃紅の血が流れだしていた。
鎧の剣闘士の体は闘技場の裏に運び込まれて、治療が行われた。
治療を行う、と小男は大商人から聞いた。
そして、そのために力仕事が必要だからと、大商人が所有する奴隷のなかで、鎧の剣闘士に次ぐ実力を持った剣闘士を呼ぶように命令された。小男は大商人の言う通りにした。
次の日。鎧の剣闘士は奇跡的な復活を果たした。前日の怪我が響いているのか、その動きは本調子ではなかったが、それでも見事、虎を討った。
小男は変わらずに食事を運び、剣闘士たちを訓練場へと連れて行っては、檻に戻した。鎧の剣闘士の様子は以前よりぎこちない気がしたが、それは怪我によるせいだろうと思った。あいかわらずの寡黙さ。鎧の接合部がたてるガチャガチャという金属音だけが、異様な雄弁さでもって小男に語りかけた。
鎧の剣闘士は勝ち続けた。一度の敗北を経て、戦い続けるその姿に、観客たちはより熱心な応援をぶつけた。そうすると、出場に際して闘技場側から支払われる金額は膨れ上がり、大商人の懐はおおいに潤うことになった。
勝って、勝って、勝って、鎧の剣闘士は負けた。大虎の牙に倒れた。
傷ついた体は闘技場の裏に運ばれて、また治療が行われることになった。
小男は鎧の剣闘士に次ぐ実力を持った奴隷を呼ぶように言われた。けれどそれは以前、鎧の剣闘士の治療で呼ばれたのとは別の人物。前に呼ばれた剣闘士はあのあといなくなってしまった。大商人によると、他の商人に売り払ったらしい。
小男は言われた通りのことをした。
鎧の剣闘士は二度目の復活を果たした。
闘技場の熱気というのは肌を焦がすほどになり、われんばかりの歓声が響いた。
剣闘士は戦って、勝ち、戦って、勝ち、戦って、負けた。
獅子に首元に噛みつかれ、力なく剣を取り落すと、がっくりと動かなくなった。
今度こそ、その命はないだろう。観客たちは火が消えたように沈んで、追悼の言葉をもらすものもいた。
だが、剣闘士は不死身の如く、次の日には立ち上がって戦った。
大商人の所有する奴隷たちはそのたびにひとり減って、またひとりどこからか買って補充された。
ある日。
その前日も鎧の剣闘士は敗北していた。そうして恒例となった復活のリベンジ戦が催された。剣闘士を倒した猛獣と再度、相まみえる。猛獣側にはすこしだけ頭をぼんやりとさせる薬が飲まされており、闘技場を盛り上げるため、剣闘士が勝つように仕組まれていた。
鎧の剣闘士が円型のリングに姿を現す。動きがぎこちないが、それは復活直後だとよくあること。猛獣側は巨大な獅子。人の指ほどもある牙をそなえ、その咆哮のあまりの迫力に気絶者が出るほどであった。
獅子が駆ける。一瞬の勝負。鎧の剣闘士は剣を一振りすることもなく、あっさりと連敗を期してしまった。
血が流れた。
小男は闘技場の通用口の脇からその試合を見ていた。
外れた手甲に収められていた指が、小男のいる場所からだけは見えた。
その指には、豪華絢爛な指輪がはめられていた。
見覚えのある指輪。
大商人がしていた指輪だった。
大商人は消えた。
奴隷たちは別の商人が引き継いで、剣闘士として戦い続けた。
鎧の剣闘士もまた、復活を果たし、鬼神の如く戦っていた。
小男はなにも考えず、ただ職務に忠実であり続けた。
食事を運び、訓練所と檻とを往復する。
ふと、鎧の剣闘士の、兜の奥に視線を向けるたびに、魂を震わせるような恐怖を感じながら。




