第449話 クジラの母乳
とある国の王様が大臣に言った。
「クジラの母乳というのは非常に栄養価が高いらしい。わしの子も、その母乳で育てたい。取ってきてくれ」
「はい。わかりました。ただちに海へまいります」
王様の命令を拒否などできない。こう答えるしかなかった大臣は、内心とっても困っていた。
おおきなおおきなクジラの近くまで泳いでいって、その母乳をとるなんてことは大変なこと。へたをしたら命を落としてしまう。
それでも怖い王様には逆らえない。大臣は兵士を引き連れて、港へと向かったのだった。
広大な海原。帆を張った船が滑るように沖へと向かう。ざぱん、と水がはじけたかと思うと、クジラの尾びれが水面に見えた。あまりに巨大なクジラの尾びれに、大臣はもとより兵士たちもびっくり仰天。腰を抜かして、甲板にへたり込む。
けれど、そんななか。一番勇敢な兵士が、甲冑を脱ぎ捨て、袋を手にして海に飛び込んだ。
ちょうどそのクジラは子供を連れていて、母乳を与えようとしていた。
一番勇敢な兵士は海中で袋を右に左に動かして、波に流される白い靄のようなクジラの母乳を捕まえようと躍起になる。
しかし、雲をつかむようなもので、まるきり成果はあげられなかった。
一番勇敢な兵士の果敢な行動に背中を押され、二番目に勇敢な兵士も海に飛び込んだ。その手には桶が携えられている。
ふたりで協力して、赤ちゃんクジラの口からこぼれて散っていく母乳を集めようと奮闘する。が、やはりどうにもうまくいかない。
見かねた大臣が兵士たちに呼びかけると三番目に勇敢な兵士が名乗りをあげた。
ホースを手に海面を泳ぐ。クジラの近くに到達すると、ホースの一方を海中へ、もう一方は海上に浮かぶ自分の口にくわえる。そして思いっきり吸った。ストローのようにして吸い上げようとしたのだ。だが、これも失敗。兵士は口のなかを塩辛い海の水でいっぱいにしてせき込むばかり。
もたもたしているうちに授乳が終わり、周りに集まってきた人間たちを見とがめたクジラが暴れ出した。大臣は全速力で船を走らせ、命からがら逃げのびたが、三人の勇敢な兵士たちはクジラによって命を奪われてしまった。
さらには船が港に戻るまでの間、不幸にも嵐に見舞われ、何人もの兵士が犠牲になった。やっと陸に戻った大臣は、これ以上の被害が広がることは容認できないと考えて、疲弊した兵士を引き連れて、目的を達することができないまま国へ帰ることにした。
帰路の途中、陽が暮れてきたので山中で暮らす農家の家で一泊させてもらうことにした。農家の主人は快く王様の大臣と兵士たちを迎え入れ、ごちそうを振舞った上に、兵士たちが寝るために、納屋を貸してくれた。
次の日、朝早く目を覚ました大臣は兵士たちを起こすために納屋へ向かった。そして、農家で飼われている家畜たちの何頭かを目にした。その時、偶然、一頭のブタが目に入った。たくさんの子ブタが母ブタの乳に群がって母乳をせがんでいる。それを見た大臣は、あっ、と思って踵を返し、農家の主人を殺してしまった。
「こちらクジラの母乳でございます」
差し出された瓶の中身を陽に透かし見て、王様は「ほほう!」と感嘆した。
「よくやった。褒めてつかわす」
「ありがたきお言葉」
大臣は恭しく頭を下げて、王様の前を辞する。
王様は上機嫌で生まれたばかりの我が子にその母乳を与えると、産みの母親にはなにもさせなかった。産みの母親は怠惰な性格で、わずらわしい子育てよりも遊び回りたいと思っていた。なので、これ幸いと毎夜、城を抜け出しては、朝方になって帰ってくるという生活を満喫した。
母乳がなくなると、王様は大臣にとってくるように要求した。大臣はそのたび手際よく入手してきては、たっぷりの母乳を王様に捧げた。
やがて王様の子供、王子様は上手なハイハイをはじめて、王様はたいそうよろこんだ。
けれど、おかしなことがあった。
王子は立って歩くということをせず、四本足で動き回るばかりなのだ。
つかまり立ちをさせようとしても、すぐにぺたりと床に手をついてしまう。
さらに成長すると、王子は初めて言葉を発した。
それを聞いた王様は我が耳を疑った。
それは、こんな声。
「ブー。ブー」
心持ち鼻が平たく出っ張った王子は、人の言葉を忘れたようにブタの鳴き声を上げ続けたのだった。
こんな絵本を読み終えた母親は、子供に、
「わかった? 人に大変なことを押し付けたり、嘘をついて悪いことをしたらいけないのよ」
「はあい」
ふたり兄弟の弟はしっかりとした返事をしたが、それでも母親はクドクドと口うるさく道徳について語り続けた。
そうしているうちに、学校に行っていたもうひとりの子供、兄が帰ってきて、
「ただいま!!」
と、家が揺れそうなほどの大声を上げた。
「おかえり。あら、泥だらけじゃない。洗面所で足を洗ってきなさい」
「はははっ」
兄は上機嫌に馬鹿笑いをして、べたべたと泥の足跡を廊下に残しながら洗面所へかけ込む。それを追って母親の雷のような怒声が響いた。
「なんだなんだ」
玄関をくぐってすぐに聞こえてきた声に、帰宅したばかりの父親が驚いて、奥を覗き込む。すると洗面所から母親が顔を出して、
「早かったのね」
「ああ、トラブルで今日できることがなくなったんだ」
父親は大きなため息をついて、淀んだ態度でスーツのほこりを玄関で払うと、靴を脱いで、のっそりと自室に向かった。階段をのぼりながら、何度も陰鬱なため息がこぼれる。
母親はキッチンに立って夕食の準備、兄はテレビを見ながら子犬が吠えるような調子で騒いでいる。それに対して母親が注意するが、その母親の注意の方が騒がしかった。
弟はキッチンに立つ母親の元へと行くと、料理の手伝いをした。お皿を並べ終わると、次はコップ。
「ありがとう」
母親は出来の良い弟に礼を言いながら、手際よく炒め物を作っている。
着替えを終えて食卓に降りてきた父親が怪訝な声を上げた。
「今日の飲み物は牛乳か。お酒なかったっけ」
「牛乳は体にいいから」
全員の飲み物を注いだ弟が答える。
「そうだな。たまには健康に気をつかうか。でも、お前は飲まないのか」
指差された弟のコップには水。
「ぼくはお腹壊しちゃうから」
「ふうん」
父親が席に着く。兄も。母親が料理を運んできて、家族四人で夕飯を囲む。
父、母、兄が牛の母乳を飲むのを、水のコップを両手で包みながら、弟は静かで仄暗い瞳で眺め続けていた。




