第42話 探偵と影人間
性格矯正センターと銘打たれた看板が掲げられている建物の一室に探偵とその助手、警部、そしてセンターの講師であり代表でもある人物が集まっていた。探偵は杖を真っすぐに床についたまま、身動きもせず部屋の隅に置かれた立派な鏡台に視線を注いでいる。助手はふらふらと室内を彷徨い、警部と講師はその様子を呆れたように眺めていた。
子供が宝物を探すように、熱心なようでおぼつかない助手の調査に講師が不安げに警部を見たが、警部はただ苦笑いを返すことしかできなかった。そんな空気を吹き飛ばすようにおほんと咳払いして、警部が手帳をめくりながら状況の説明をし始めた。
「ええと。まず死亡したのはここで講習を受けていた生徒。この性格矯正センターでは生徒はこの建物の中で共同生活することになっており、それで、その生徒はこの部屋に住んでいた。そして昨日、建物の屋上から身を投げて死んでしまった、と。これで合ってますかな」
言われた講師は頷いた。
「はい、そうです。それにこの部屋の住民が自殺したのは三度目なのです。本当は二度目の自殺の調査を警部にお願いしていたのですが、こんなにも早く次の悲劇が起こってしまうとは思ってもいませんでした」
悲しみに暮れる講師を横目に、警部が小さく訂正を挟む。
「自殺、とはまだ断定できないでしょう」
「いいえ。そうでない方が私にとっては慰めになりますが、否定しようもない事実でしょう。私の不徳の致すところではありますが、生徒が抱えていた悩みを完全に取り除くことができなかったのです」
「しかし塀が…」
警部が口を開くと、それに先回りするように講師が言葉を繋いだ。
「屋上の塀の話は伺いました。あの高さでは乗り越えてその向こうへ飛び降りることは難しかった、と仰るのでしょう。しかし塀の上には靴の跡が残っていたと伺いました。踏み台などの道具は見つかっていないながら、風に飛ばされたりした可能性がなくはないとも」
「まあそうなんですが。三回とも当日風がなかったことは確認されてるんですよ」
「気象データに残らない程度の偶発的な突風などいくらでもあるのではないでしょうか」
「…」
煮え切らない態度の警部をよそ目に、講師は探偵に向かって語りかけた。
「一部の生徒はこの部屋が呪われているのだと怯えております。どうでしょうか。何か異常がありますか」
聞かれた探偵が難しい顔をして黙りこくっているので、助手が代わりに答えた。
「いやあ、何もありませんね。呪いと言ったら御札の一枚ぐらい隠されていそうなものですけど」
言いながらタンスやベッドの裏を覗いている。
「そうでしょう。何もあるはずはありません。それを証明して頂ければ、皆も安心できます」
講師が軽く頭を下げて助手に恭しく言った。そして面を上げると晴れやかな笑顔を顔に張り付かせて、小さなえくぼを覗かせた。
「そろそろ…」
「調査を切り上げられては」と講師が言おうとした時、突然探偵が口を開いた。
「自殺した方はあの鏡台で何か作業をしていたんですよね」
警部が「ああ」と講師の代わりに返事をして、
「書きかけのノートが置いてあって、ペンのインクの乾き具合で死の直前までそこに居たって事はほぼ間違いないと結果がでてる。一日の記録だそうだ。その時何かあって屋上に突っ走っていったんだな」
と、砕けた調子で説明した。探偵は微かに顎を引いて、ぐるりと向きを変えると講師と相対した。その瞳は荒れた海を照らす灯台のように煌々と輝いている。それに射竦められた講師は僅かに目を細めた。
「このセンターの講義内容について伺いたいのですが」
「ほう。興味がおありですか」
講師は嬉しそうに微笑みを湛えて、滑らかに語りだした。
「人は皆悩みを抱えています。そしてそれはいずれも他者との違いが原因の摩擦、その結果の軋轢に他ならないのです。このセンターでは精神の画一化を目標にして、生徒達は訓練に励んでいます。心の中から余分なものを排除し、同質の精神を持つ仲間と共に不安というものを吹き飛ばすのです」
語る講師は自信に満ち溢れ、全身から意志の強靭さを発散させているようだった。そんな様子を観察しながら、探偵は冷ややかな表情のまま質問を重ねた。
「画一化とは、貴方がモデルでしょうか」
「その通り。皆が私を目指します。私は生徒たちの規範となるよう、日々完璧な存在を目指しています。わたくしを捨て、私を得る。それが基本です」
話を横で聞いていた警部が気味悪そうに講師を見ていたが、講師はそんな視線は意にも介さず堂々としたものだった。
その時、開けっ放しだった部屋の入口の前を生徒たちの団体が通り掛かった。皆同じ制服を着て、軍隊のような正確さで歩調がぴたりと揃っている。全員が張り付いたような晴れやかな笑顔の中に小さなえくぼを輝かせていた。一糸乱れぬ動作で入れ替わり立ち代わり一人ずつ講師に一礼していく。まるで一個の脳で動く機械のような有様だった。
ベルトコンベアの上に乗せられた製品のように流れていく生徒たちの一人を、ふいに講師が呼び止めた。よく見ると制服の肩の部分が少し汚れている。それを指摘された生徒は深々と感謝の言葉を捧げて、服を洗う為か元来た道を一人だけ戻っていった。
「すごく慕われてるんですねえ」
助手が生徒たちの様子を見てポツリと漏らすと、講師は誇らしげに胸を張った。
「彼らはもう鍛錬の終盤にある者たちです。始めはばらばらだった彼らも、今ではあのように立派な振る舞いをするようになりました」
「この部屋に住んでいた方も同じですか」
探偵がふいに小さな質問を投げかけると、
「まあ中盤から終盤に移る途中といった所ですね」
と、言いながら講師は時計を確認した。
「さて、私は彼らの指導がありますので、この辺りで失礼させて頂きます。どうぞご納得いくまで調査ください」
講師が立ち去った後一瞬の静寂が訪れたが、部屋の隅で居心地悪そうにしていた警部がずかずかと探偵の傍に歩み寄って堰を切ったように話し出した。
「それで、探偵さん。何か分かったのかよ」
「ここ以外の部屋も見せてもらったけれど、それぞれ調度品が違うのには気づいていたかい」
「え? ああ…」
言われて警部は部屋を見渡す。豪華な細工が施されたタンス。大きなベッド。棚とたくさんの本。秒針のない置時計。観葉植物。そして立派な鏡台とその椅子。
「部屋のものは全部貰いものらしいぜ。卒業した生徒が寄付してるんだと。だから部屋によってまちまちなんだろうさ」
警部はぶっきらぼうに言い捨てて、皮肉めいた眼差しで探偵を見た。
「俺としちゃあ、なんにもなかったってお墨付きを貰えれば、自信満々に自殺だって報告できるんだがね」
警部が言うと、探偵はちらりと横目で警部を見て、にやりと口元を歪ませた。
「本当にそう思っているなら、僕を呼んだりしないだろうに」
警部は眉根を潜め、ごまかすように助手に目を向けた。助手は鏡台の椅子に座って、両肘をついて顔を手で挟み、妙な表情をしながら鏡を覗き込んでいる。
「この机が呪われてるんですかねえ」
「そうさ」
あっさりと言われて助手は跳び上がった。探偵の背中に隠れるようにして、こわごわと鏡台の方に視線を向ける。
「君は理想と現実との大きな齟齬を感じた場合、自ら命を絶ちたいと考えるかい」
「えっ。ソゴがないから分かりません」
あっけらかんと答える助手の横で、警部は落胆したような声を上げた。
「つまり講師に憧れる生徒が、同じになれないと悟って自殺したってことか。それじゃあ結局自殺なんじゃないか」
「簡潔に言えばね。しかし事はそう単純でもないようだ。遺体の写真と屋上の様子は見させてもらったが、警部が言っていた通り塀を乗り越えることはできなかっただろう。道具を使ったという話もあったが、僕の調査ではそれが事件の後に消えてなくなるような要因はないんだ。道具なしに登ったんだよ」
警部は顎に手を添えて首を傾げた。
「どうやって? 火事場の馬鹿力ってやつか」
「それに、なんでこの部屋の人ばっかりなんです?」
横から助手も疑問を差し挟む。探偵は助手をちらと見ると手に持った杖の先を鏡台に向けた。
「それはこいつの所為だろうさ」
言うが早いか鏡台の鏡は杖で叩き割られてしまった。粉々になった鏡の破片がキラキラと輝いて辺りに散らばり、三人の顔を無数に増やす。
「他の部屋には鏡はなかった。あるのはこの部屋だけだ。講師が言っていただろう。余分なものを排除するって。そして余分なものとは生徒たちが目指している講師と似ても似つかない部分なのさ。この鏡に映っていたであろうものをどう思う」
「どうって、顔が違うってだけの話だろう」
「そうさ、だがここではそれ以上の意味を持つ。鏡がなければ心だけを見ればよかった。しかしこの部屋では机で作業をする為にはどうしても鏡を見ることになる。そして生徒は屋上へ」
探偵はつらつらと語りながら細長い指で鏡台、天井とその先の屋上を順に指し示した。
「でも塀は?」
「生徒自身でない生徒の助けを借りたのさ」
「別の生徒が手伝ったってことか?」
掴みかかりそうな勢いの警部を押し止めるようにして探偵は腕を広げ、一方の手で自分の肩を叩いた。
「肩に汚れがついていた生徒がいただろう。あれを調べたら、遺体の靴跡と一致すると思うよ」
警部はアッと叫んで、慌てて服を確保すべく部屋から出て行った。残された助手は探偵の顔を覗き込んで質問した。
「なんでその人は自殺を手伝ったりしたんでしょう」
「右手の爪を切ろうと思えば左手を使うだろう。同じ事さ。彼らの個は失われて、もっと大きなものの一部になってしまったんだ。自ら望んでね。異物があれば取り除く、誰かの望みは全員の望み、ここでは当たり前のことなのさ」
助手は心配そうに眉根を寄せて、天井の向こう側ある屋上を透かし見るように首を反らした。
「他の人たちは大丈夫なんでしょうか」
「自らを省みる機会のない者たちは気づかないのだろうね。しかし穴が空いたコップに水を注いでいるようなものだから、一度流れ始めた水は全て零れ落ちてしまうんじゃないかな」
すでに事件に興味を失ったかのように冷淡で他人事のような言い草だった。少し沈んだ様子の助手に探偵は「その辺りの事は警部が何とかするだろうさ」と慰めとも突き放しとも取れる言葉を投げかけた。
「さて、物を壊してしまったから謝りにいかないとね。ついでに鏡を置かない様に言っておこうか」
踵を返して部屋から出ていく探偵に、助手は跳ねるようにしてついていく。
「魅力的過ぎるのも考えものなんですかねえ」
後ろを歩く助手が妙なことをあまりにしみじみと言うものだから、探偵はおかしくなって小さな笑みを零した。