第384話 タツノオトシゴ
タツノオトシゴが落ちていた。
でこぼこしたアスファルトの道路。太陽が照りつける、黒々と舗装された道に、ぺちゃり、と水分を滴らせながら落ちているソレを、はじめ見た時はタケノコかと思った。タケノコの煮物が落ちている。しかし、よくよく見ると違う。覗き込んで分かった。
これは、タツノオトシゴだ。
店の前にこんなものが落ちていたら、非常に感じが悪い。俺の店は観賞魚の販売店。生きた魚を扱う店の目の前に魚の死体とは、とんでもない営業妨害だ。誰かの嫌がらせかもしれないが、恨みを買うようなことをした覚えはない。
ピクリ、とタツノオトシゴが動いた気がした。おやっ、と思って拾い上げる。そうして店に運ぶと、余っている水槽のひとつに入れてみた。
死んだ魚のように横倒しになって、しばらく浮かんでいたかと思うと、くるんと巻かれた尾が下に向いて、水の中で直立した。どうやらまだ息があったらしい。ちいさな命を救えたことに俺はほっと一安心する。
しかし、落とし物、ということだろうか。そんなことがありえるだろうか。捨てられた、としか考えられない。竜の落とし子が実際、落とされているなんて、洒落のつもりかもしれないが、たくさんの観賞魚の命を扱う仕事をしている俺にとっては許しがたい所業であった。
俺は張り紙を出した。
――落とし主を探しています。タツノオトシゴを紛失された方はいらっしゃいませんか。ご本人でなくても心当たりがある方はご連絡下さい。
犯人を捜してやろうというわけだ。一言説教してやらなくては、気が済まなかった。
しばらくして、連絡があった。受け取りに来ると言う。俺は面と向かって文句を言ってやろうと思い、電話越しでは愛想よく返答してやった。
だが、妙なことになった。自分が落とし主です。そういう電話が何件もあったのだ。落とし主は当然一人のはず。他の者は嘘をついている。これには俺も弱ってしまった。タツノオトシゴがタダで手に入ると考えた強欲な者がいたのだろう。俺としては、どうやって本物の落とし主を判断したものか困る。
考えた末に、全員を同じ日、同じ時刻に集めることにした。本人同士で話し合って決めてもらうのが一番角が立たないだろう。
とりあえずは来る日までタツノオトシゴの世話をしなければならない。タツノオトシゴなど扱ったことはないので、色々と調べなければならなかった。食性は肉食で、小魚などを食べるのだという。エサ用のアミ類を買ってきて水槽に撒いてやると、ホースのように突き出した口を使って、意外に獰猛な動作で捕食した。
落とし物のタツノオトシゴはみるみる元気を取り戻し、肌はぷるんとしたピンク色になり、動きも活発になった。しかし、その食欲にはまいってしまった。売り物でもないものの世話としては大変な出費だ。もし受け取り手が決まったら、そいつにエサ代を請求しよう。
受け渡し日当日。
はじめにやってきたのは、目の焦点が合っておらず、もったりとした話し方をする男だった。すぐに次の者がやって来る。ぐしゃぐしゃに髪を乱して、自分の顔のあちこちを触っている女。こいつも目の焦点が合っていない。もう一人、体中の皺に手足すら沈めているような、薄着の老婆。最後は甲高い声で騒ぎ立てる頭の大きな少年。老婆と少年も、どこを見ているのか分からないような目つきをしていた。
「私が持ち主です」
男が言った。
「あたしよ」
女も言う。
「なにを言うか儂だ」
「ぼくのだよ」
老婆と少年も次々に言う。
「証明できるものはありますか」
俺が聞くと、全員が首を左右に振った。しかし、断固として自分のものだと言い張って譲らない。どいつもこいつも神経質に視線を走らせ、指を震えさせている。当初は説教してやろうなどと思っていた俺の心は急速に萎み、「あなたたちで話し合って決めてくれませんか」と、さっさと決断を委ねた。
全員が睨み合い、殴り合いでもはじまりそうな雰囲気。本当の持ち主はともかく、嘘をついてやってきたやつにとって、このタツノオトシゴはそれほどの価値があるものなのだろうか。
営業の邪魔になるので、早く決めてくれるように言って、俺は他の水槽の世話にいそしむことにした。
とんだ藪蛇だった。タツノオトシゴの水槽を前にして、四人がわあわあと話し合っている。
魚が驚くので静かにしてくれるように頼んだが、それでも治まらない。
しばらくの辛抱だ、と溜息を何度もつきながら、店の半分ぐらいの水槽の世話が終わろうかという頃、ぴたり、と声が止んだ。うなだれた様子の三人が、ぞろぞろと店を出ていく。
どうやら決まったらしい。残っているのは男一人。
「いやあ。どうもありがとうございました」
男は先程までとは打って変わってはきはきと喋って、爽やかに微笑んだ。目の焦点もぴたりと合って、こちらをしっかり見据えている。
「あんなに立派に世話して頂いて、これは少ないですが謝礼です」
金を渡される。相当の額。俺は困惑してしまっていて、それを突き返すことも思いつかないまま、店を出ていく男の背中を見送った。
水槽を見る。そこにいたタツノオトシゴはいなくなっている。
なにか違和感があった。
店の外に出て、男の姿を探す。
男は手ぶらだ。どうやってタツノオトシゴを持ち帰ったのだろうか。
遠のいていく足、背中、そして頭。
その後頭部。
なんだか、変な頭だ。
割れたザクロのような形。
大きな亀裂が走り、裂け目が盛り上がっているような。
そういえば、タツノオトシゴについてインターネットで調べている時、別のものが検索に引っかかった。
タツノオトシゴの別名は海馬。
それには別の意味があった。
タツノオトシゴにそっくりな形をした脳の一部。海馬。
いや。まさかな。
俺は店に戻る。
男は本当の持ち主だったのだろうか。他の三人は何者だったのだろう。
海馬を持たない人間は、どんな様子になるのだろうか。
俺は湧き上がる疑問を押し込めて、ただただ仕事に没頭し、一刻も早く忘れてしまうことにした。




