第369話 灰の幻影
「ねえ。こっちにいらっしゃいよ」
「ああ。遊園地に行こう」
「サッカーボールが欲しいな」
「今朝の新聞で読んだんだけど」
「おいしいね」
「怪我しちゃってさ。しばらく入院さ」
「そうなんだ。うん。わかってるよ」
風が吹く。
さわさわ、さわさわ、と、風が吹き抜けていく。
家々の扉を撫でるように。人々の言葉を、くるくる、くるくる、とかき混ぜるように。灰色の粒子を乗せて、風はどこまでも地を滑り、流れていた。
つばの広い帽子を被った貴婦人が、犬の散歩をしている。犬はくるんとカールした尻尾を振って、貴婦人の少しだけ前を、まるでボディーガードのような勇ましさで、小さな体を張り詰めさせながら、とてとてとて、と歩いている。貴婦人は、つん、と鼻先を天に向けて、ヒールの音の先っぽで気取りながら、香水の匂いを漂わせて、かっ、かっ、かっ、と歩いていた。
「やあ、こんにちは」
ボロボロの服を着た男が貴婦人に話しかけた。汚らしい見た目。洗っていないタオルのような匂いを発散させている男。
「商品のご案内をしているんですが。試供品はいかがですか」
女は見向きもしない。男も女に話しかけたわけではなかったようで、ただ虚空に向かって手を突き出して、歪なマッチ箱みたいなものを掲げていた。
少し進んだ場所で女が振り返った。そうすると香水の匂いが振りまかれて、辺りの空気をピンク色に染め上げた。
「あら。あなた」
視線が向けられた先では、老婆が杖をつきながら、よたよた、よたよた、と鉤のように曲がった腰を、閉じたトラバサミぐらいに曲げながら、道を横切っていた。老婆は口に沢山の飴玉を詰め込んでいるように、絶えず、もそもそ、と顎を動かしながら、
「こんにちは」
と、言った。それは女にではなく、さりとて試供品を配っている男に向けたものではなく、舞い落ちる木の葉であったり、吹き抜ける風であったり、細かな灰色の粒に対して言っているようであった。
「こんにちは」
老婆がくり返すと、女は「どこ行ってたの?」と声を尖らせた。矢のようなその言葉は、宙を飛んで、老婆を掠め、通りの向こう側にある灰色に染まった街路樹に突き刺さった。
「こんにちは」
老婆が言いながら、女を素通りして、杖を、こつ、こつ、と鳴らしながら、かさこそ、と落ち葉をかき分けた。
「もう!」
と、女が憤慨すると、男の子が駆けてきた。
「わーい。わーい」
歓声を上げ、手に持った飛行機型のおもちゃを灰色の気流に泳がせ、「びゅーん」と一端の演出家のように、華麗な曲芸飛行を風切り音で彩りながら走っていく。
車がやって来た。
「こらっ!」
運転手の怒声が飛ぶ。ぎゅいん、ぎゅいん、とタイヤが地面を削る音が、地面を伝って、道の両側に立ち並ぶ住宅を揺らした。
灰色の粒子が舞い上がった。子供の姿が灰色に覆い隠される。車が起こす振動はますます激しくなっていく。けれど、粒子を舞い上がらせたのは車の振動ではなく、駆け抜ける男の子が踏み荒らした落ち葉でもなく、貴婦人の溜息でもなく、老婆の杖の振り子運動でもなく、小汚い男が持っているマッチ箱のなかから飛び出した摩訶不思議な商品でもなかった。
風。風が全てを動かしていた。
車は男の子に衝突したが、交差する瞬間、お互いの姿は靄のように揺らぎ、何事もなく車は通り過ぎ、男の子は「わーい。わーい」とはしゃぎながら、走り去っていった。車の運転手が道路に何かを投げ捨てた。投げ捨てられたゴミは貴婦人の連れている犬にぶつかったが、犬は悲鳴一つ上げず、すまし顔をして、見向きもしなかった。
また、風が吹いた。静観な街の風景がふわりと浮かび上がって、そこで暮らす人々の生活を乗せて、魔法の絨毯のように、ひらひら、ひらひら、と、空の彼方へ飛び立とうとしていた。
「我が社の商品はいかがですか」
取り残された男は、灰色の粒子にまみれながら、誰にともなく話しかけた。
「過去。人類の誰もが同じ望みを抱きました。死者を模した石像。彫刻。ミイラ。絵画。写真。蓄音機。映画。あらゆる方法で死者を保存しようとしました。けれどそれはいずれも完全ではなかった。その点、我が社の商品は画期的です。その人生の全てを、余すところなく記録し、再生できるのですから……」




