第360話 誉
とある海辺の村では、蛇が神として信仰されていた。蛇に身を捧げ、蛇の腹のなかに納まってその血肉となることが、大いなる誉とされていたのだ。
年に数回行われる村のお祭り。
生気溢れる若者が選ばれ、蛇神の前に連れ出される。蛇神は恐るべき大蛇。人ひとりなど、丸呑みにしてしまえるような体格。先の割れた舌をチラチラと揺らし、人々が囲む炎の近くまで、悠然とやってくる。遥か昔から続けられてきたこの祭事によって、人間が自分に身を捧げてくれるということを蛇も知っているのだ。
選ばれた若者は怖れることなく蛇の前に立つ。大蛇が大口を開けてそれを待ち受けている。暗い死の吐息が流れ出る冥府へのトンネルへ、若者は飛び込んでいった。
満腹になった蛇は、ぷっくりと膨れたお腹を抱えて、森へ帰っていく。森には多数の蛇が棲んでいた。神とされる蛇は一匹ではなく、うじゃうじゃと森の湿地帯に棲みついていたのだ。
蛇の集落では、儀式が行われていた。人が人の信仰を持つように、蛇には蛇の信仰があった。蛇の神、大鰐がその日、姿を現したのだった。
大鰐に身を捧げることこそが、蛇たちにとっての誉であった。さっそく人間を丸呑みにしてきたばかりの、生気溢れる大蛇が、待ち受ける大鰐の元へにょろにょろと身を進めた。
鰐が大口を開けて待ち受ける。鋭い歯がギロチンの刃のように煌めいた。蛇は怖れることなく鰐の強靭な顎の上に身を横たえ、自らの命を投げ出したのだった。
鰐は肩で風を切り、うねるように歩いて海辺へと帰っていく。海辺では大量の鰐たちが、群れをなし、その背に並ぶ尖った鱗を水面から突き出していた。
人には人の、蛇には蛇の信仰があるように、鰐もまた信仰を持っていた。それは大いなる海からやって来る、凄まじく巨大な動物。鯨を神として崇めることだった。
大鯨に呑まれることこそが鰐にとっての誉であった。人を食った蛇を食った鰐が、鰐の集落へと戻ってきた時、丁度、海のなかから、鯨が雄大なその巨体を現した。
鰐たちは我先にとその大口へと雪崩れ込んでいく、しかし、一番早かったのは人を食った蛇を食った鰐であった。本日の栄誉はこの鰐に与えられることになった。
鰐で腹を満たした鯨は海へと帰っていく。海の底、深海において、鯨たちが暮らす楽園があった。そんな楽園にもまた信仰が存在し、信仰によって鯨たちの心は支えられていたのだった。
潮の流れが変わった。水を押しのけ、鯨たちより大きな化け物鮫が集落へとやってくる。その鮫こそが鯨たちにとっての神。鮫に食べられることこそが、鯨にとっての誉であった。
鮫の口に並ぶ鋭い牙の森のなかへと鯨はその身を捧げようとする。押し合いへし合いで口に飛び込もうとする鯨たちの競争に勝ったのは、人を食った蛇を食った鰐を食った鯨であった、
その鯨は一噛み、二噛み、で鮫の胃の腑に納まり、瞬く間に命を落としたのだった。
ある時、海岸にとんでもなく巨大な鮫が打ち上げられているのを海辺の村の人々が見つけた。体はぶよぶよとしていて、風船のように膨らんでいる。海の気候変動か、それとも別の魚にやられたのか、原因は分からないが、とにかく既に絶命していた。
調査のために鮫が解体されると、その胃のなかから、人間の死体が出てきた。それは恐るべき人食い鮫として話題になり、漁で生活していた人々は鮫を駆除すべく立ち上がった。
鯨たちは異変に気がついた。神である鮫の姿が見えなくなっていた。その原因を探っていると、海面近くで銛を投げる人間たちを発見した。
鮫の優美な背びれが水面から覗くたびに、銛を投げ放ち、人間は鯨にとっての神の命を奪っていた。
鯨はこの暴挙に怒り、人をその小舟ごと呑み込んだ。
蛇たちは自らの信徒である人が姿を消していくことを訝しんでいた。海に出たまま帰ってこない。一匹の蛇がその原因を探るべく、海へと向かう人の後をつけていくと、沖に出た人間の小舟が、鯨によって沈められているのが見えた。
その身を捧げてくれる人間の横取りは、蛇にとって許せない行為であった。
湿地帯に棲んでいた蛇たちは海へと向かった。体をくねらせ海を泳ぎ、鯨を見つけるたびに、一斉に噛みついて、毒によってその命を奪った。
しかし鰐がこれを黙って見ているわけはなかった。鰐にとって鯨は神。蛇は信徒。信徒が神にとっての神を殺すなど看過できないことであった。
鰐たちは蛇の集落を襲った。蛇たちは大挙してくる神たちの姿にひれ伏して、易々とその牙の元に倒れていった。
鮫は人に狩りつくされ、人は鯨に狩りつくされ、鯨は蛇に狩りつくされ、蛇は鰐に狩りつくされた。
ただ一種、残った鰐たちは、もう存在しない神、鯨の影を追って、深い深い水の底、深海へと向かっていく。そうして冥府に誘われるように、皆がそれぞれたったひとつしか持ちえない、命を散らせていったのだった。




