第342話 おんぶお化け
閑散とした夜道を行商人が歩く。痩せた土地を月が照らし、乾いた冷風が枯れ草をカサコソと揺らした。荒れた土を踏みしめると、蹴り飛ばされた小石がコロコロと躍って、坂を滑り落ちていった。
夜を徹して足早に進んでいると、ボロ布のような枝葉を垂らす、太い巨木がぬうっと現れた。薄く月にまわりついていた雲が不意に流れて、その根元が露わになった。
誰かがうずくまっている。
老人のように見えた。蜘蛛の巣が張ったような白髪頭を、骨ばった腕で抱え込んでいる。
行商人は立ち止まり、話しかけるかどうかとしばし逡巡した。行商人は各地で薬を売り歩いていた。こんな夜更けによもや妖ではないか、と思いはしたものの、薬で人を助けるのが本分。それに生来の人のいい性格が見過ごすことを許さなかった。
「もし。どうかされましたか」
老人がピクリと動き、ふり向いた。一瞬その顔が髑髏のように見えて、行商人は後退ったが、よくよく見れば古木のように年老いてしわがれているものの、ただの顔。
「どこかお体でも? わたくし薬を売っているものです。お力になれるかもしれません」
「……おぶって」
ごうっ、と風が吹いて、老人が着ている法衣にも似た薄汚れた布切れがはためいた。
「えっ?」
「おぶって、いってください」
「足腰を痛められたんですか」
「おぶって、いってください」
「……お家は近いので?」
枯れ枝のような指が虚空に向けられる。細く尖った爪が闇のなかでちらちらと輝く。ちょうどそれは行商人の行き先と同じ。ついでだと思えば、おぶっていくのはまったくもってかまわなかった。
しかし、おぶると言っても、行商人は大きな薬箱をリュックサックのように背負っている。しばらく考えて、薬箱を正面、胸の方に抱え直すと、薬箱に取り付けられている紐を肩に回す。そうして老人をおんぶできるように、行商人は背中を空けた。
「どうぞ」
背中を向けて手を伸ばすと老人はすぐにおぶさってきた。それがあまりに俊敏な動作だったので、行商人は驚いてよろけたが、老人は行商人の首にがっしりと腕を回してしがみついているので、振り落とされたりはしなかった。
背中からお香のような臭いが漂ってくる。
不気味な悪寒に苛まれながらも、行商人はこれも人助けだと奮起して、一歩、二歩、と歩き出した。
重たい、というのが行商人が最初に感じた印象。枯れ木のように見えた体に、こんな重量があるとは不思議であった。まるで岩を背負っているよう。それでも長い行商で足腰は鍛えられている。行商人は苦労しながらも、どうにか夜道を進んでいった。
分厚い雲がどこからか現れた。辺りが暗い影に覆われて、一寸先すら煙った霧に包まれたように見えなくなった。そうして闇をかき分けるように進んでいると、深い谷に辿り着いた。
「この向こうです」
背中の老人が雑巾を絞るような声で言う。
「どうやって渡りましょうか」
行商人の目的地もこの谷を越えた先だった。渡れないと困る、と思っていると、老人が指差す。示された場所には月明かりがぽっかりと降り注いでいた。
吊り橋。太い縄と木板で作られた橋が、風が止んだ谷の上で、ぶらぶらと微かに体を揺らしている。
吊り橋の傍に行くと、行商人は不安を覚えた。足場の木板からは腐ったような臭い。縄は今にも千切れそうだ。
「他に橋はないんですか」
首が横に振られると、白糸のような老人の髪が行商人の首を撫でた。
「落ちたりしないですよね」
つま先で板を踏んでみるが、意外に頑丈そうな感触。行商人は思い切って一歩踏み出してみた。薬箱と老人を抱えた行商人の全体重があっさりと支えられる。大丈夫そうだ、と行商人は胸を撫でおろして、木板に足裏を擦りつけるようにしながら渡っていった。
ずり、ずり、ずり、と足音が夜に響く。
行商人は、ふと、違和感を覚える。背中が軽いのだ。老人が蒸発して消えていっているように、橋を進むたびにあんなに重く感じていた体が軽くなっていく。もしや落っことしてしまったのではないかとも思えたが、不安定な吊り橋を闇のなかで渡るうちに、行商人の心には緊張と恐怖心がじわりじわりと染み込んできて、振り返ることができなかった。
そうして橋の半分程を越えると、体が浮き上がるような感覚がした。この時、行商人は老人はやはり最初に感じた通り妖だったのだと確信した。空を飛んで引っ張っている、自分を連れ去ろうとしている。
慌てて吊り橋を駆け抜ける。急に強い風が吹きはじめた。つんざくような悲鳴に似た風切り音が耳の奥でこだまする。もはや背に老人はいなかった。
木板を踏み抜きそうになりながら、ぎしぎしと軋みながら揺れる吊り橋を必死の思いで渡り切る。対岸に到着したと同時に行商人は勢い余り、つんのめって転んでしまった。顔から地面にぶつかりかけるが、胸に薬箱を抱えていたおかげで、すんでのところで怪我をせずにすんだ。
息を切らして行商人が宿に飛び込んで来た。谷の近くにある村。その宿の主人は驚いて、
「どうされました」
「あの、妖に……」
主人が出してくれた水を一息に飲むと、喉につかえて激しく咳込む。咳がおさまると、行商人はやっとのことで正常な思考を取り戻しはじめた。
「あの吊り橋で」
「吊り橋……ついに落ちでもしましたか」
「えっ? いえ、それを渡って来たんです」
「渡った? 何故そんな危険なことを。看板をご覧になりませんでしたか」
「看板なんて、どこにも」
「暗い夜ですから見逃したんですかね。とにかく無事でよかった。あの谷は旅人を引き込む怪異が出ると言うので、できるだけ渡らないようにと看板が立ててあるんです」
行商人は記憶を探ったが、そのような看板を目にした覚えはなかった。ひどく衰弱しているのを見かねた主人が、今夜は早く休んで話は明日にすればいいでしょう、と勧めたので、行商人はそれに従った。
次の日、行商人は村の者に一緒に来てもらって、吊り橋の元を訪れた。しかし、いざ日の光に照らされた吊り橋を見た行商人は仰天した。
木板は外れて穴だらけ、とても夜闇のなかで無事に渡れるような状態ではない。橋の両側には、宿の主人が言ったような看板が確かに建てられており、この橋危険につき渡るべからず、としっかり記されていた。
宿に戻った行商人は、ひとり首を捻った。
それにしても、あれはなんだったのだろうか。あれは命を取ろうとしていたのか、それとも助けてくれたのか。谷の怪異だったのか、その怪異から人を助ける神様だったのか。それともまた別の……。




