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第34話 視線

 それは刹那の気の迷いだった。しかし致命的な一瞬であった。その瞬間に殺しに必要な心がすっぽりと抜け落ちてしまったのだ。

 殺し屋だった俺は標的となる男の家に潜入していた。想定外だったのは、その日は外出しているはずの男の妻が部屋に居たことだ。俺は動揺しつつも、殺し屋としての本能が体を突き動かした。女を羽交い絞めにして男を撃ち、素早く女に銃を握らせると女の頭に銃口を当てて引き金を引かせた。妻が男を撃って無理心中を図ったように見せかけたのだ。

 だが、もう一つ想定外の事態が起きた。男には幼い子供がおり、顔を見られてしまったのだ。幸い殺しの瞬間は見られていなかったが、何も知らない少女は不思議そうに部屋へと足を踏み入れようとしていた。目撃者は消すべきであったが、俺の脚は竦み、腕は硬直していた。気づいた時には少女に部屋の中を見せまいと、手で制していた。そして俺は少女の手を引いて、その場を立ち去ったのだった。

 俺の所属する組織には鉄の掟がある。組織は掟に則り少女を消すように通告してきた。だが俺は命令に背き、少女を連れて逃亡した。義侠心、罪悪感、償い、どれも違う。何か不可視の衝動に突き動かされたのだと言う他に説明しようがなかった。結果として俺と少女は組織から狙われるはめになった。

 少女は俺のことを父親のボディーガードの一人だと思っているらしかったので、特に否定はせずにその勘違いを利用させてもらった。ニュースで両親が死んだことを知り、俺の説明で追われているという状況も理解していたが、憂いの中に子供らしい奔放さを生き生きと輝かせていた。

 俺は少女の願いをできるだけ聞いてやったが、全てを叶えてやることは至難であった。朝はどうしてもフルーツが食べたいと言って聞かず、狙われているにも関わらず学校へ登校しようとしたり、親戚に電話をかけようとしたりと、フォローする側としては心労が絶えなかった。祝日になると両親と通っていた教会の集会に参加したいと言い出した。俺は止めたが、結局は根負けして連れて行かざるをえなくなってしまった。

 教会への移動には最大限の警戒で挑んだ。しかし放たれた数多の追っ手の目を全て掻い潜ることは困難で、その監視網のひとつにひっかかってしまったのだった。

 ねっとりと無数の視線が絡みついてくる。こうなってはアジトに帰るのは危険だ。もうそこにも奴らの手が伸びているだろう。とにかく当初の目的地である教会に向かいながら、ひとつひとつ視線を排除して抜け穴を作りだすしかなかった。

 俺は戦った。鋭敏になった感覚にいくつもの視線が突き刺さってくる。それを根気強く減らしていく他に生き残る道はない。少女は俺のそんな頑張りを知りもせずに呑気なものだ。勿論巻き込まないように細心の注意を払っているからであったが、のんびりと街を歩き、目的地である教会の屋根についた十字架を見て無邪気にはしゃいでいる。

 度重なる戦闘で俺の感覚は極限まで研ぎ澄まされていた。視線は後ひとつ。これが最後の追っ手だ。教会に入るとその気配はより濃くなった。降り注ぐような視線に俺は二階を見上げたが、祝日の集会には多くの人が詰めかけており追っ手の位置は分からない。

 俺はできるだけ隅の方の席に少女を座らせたが、追っ手の位置が特定できず、逼迫した状況であった。擦り切れかけた精神に、いつ銃弾に貫かれるか分からないという恐怖がじりじりと忍び寄ってきた。しかし天井のステンドグラスを見上げる少女を横目に見ると、恐怖は霧散し、やり遂げなければならないという思いが強く湧き上がった。そうすることで自分自身をも救うことになるような気がしたのだ。

 讃美歌が始まった。空気が揺れ、音で世界が満たされる。もし敵が動き、銃を構えたとしてもその気配を捉えることはできないだろう。まだ視線は近くにある。敵が行動を開始するのは今しかない。張り詰めたような緊張から、俺は懐に入れた手に持った銃を強く握りしめていた。

 ふと横を見ると少女が俺を見つめていた。わざわざ教会まで出向いたのに自分は讃美歌を歌わないらしい。僅かに緊張が緩み、そのことを少女に尋ねると、少女はただこの歌を聴くのが好きなのだと言った。

 讃美歌が終わる。額から汗が流れて、大粒の滴になって床に落ちた。なぜだか分からないが、追っ手は絶好の機会を見逃したらしい。しかしまだ視線は残ったままだ。

 少女が俺の額の汗を拭いてくれた。そして、そっと俺に囁きかけた。

――神はいつでも貴方の事を見ている。

 俺は天を仰いだ。隣に目を向けると少女はもうどこにもいなかった。先程まであった視線も今は感じることができない。だがそれが消えてなくなった訳ではないことを俺は分かっていた。今もどこかから俺の事を見続けているのだ。

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