第338話 ふわふわと牙
抜き足差し足忍び足。ヒツジの背後に迫った俺は、ひとくちで食べてやろうと大口を開けて牙をむいた。ところがその時、
「あれ、どうしたの?」
と、ふわふわした綿毛がのんきな声で俺に話しかけてきた。
「うぐ」と思わず息を呑んで、引くか押すかで悩んだ末に、いったん牙を引っ込める。
「だいじょうぶ?」
不思議なことに捕食者である俺をまったくもって怖れる様子はない。口を閉じるときに唾液がとろりと垂れ落ちてしまったが、それを浴びたヒツジは「雨かな」だなんて、とぼけたことを言っている。
「虫でも飛んでた?」
話しかけてくるヒツジに、どう反応したものかと悩んでしまい、
「……いやあ」と、なんとか言葉をひねり出すと「いい天気だなあ」なんて変な返しをしてしまう。妙な空気にあてられて、なんだかとってもむずがゆい気分。
「ほんとうに気持ちのいい空だね。これで、いい風が吹いてくれれば申し分ないよ」
「そう、だな」
深い緑の森のなか。薄い葉の隙間から、まぶしい木漏れ日が降り注いでくる。風はない。ほんのりと湿気があって、それが土や植物の香りを濃くさせている。
沈黙。なんだか興が削がれてしまった。たまたま獲物を見つけて、きまぐれに食ってやろうと思っただけだ。そんなに腹が減ってるわけでもない。
僕はぼんやりしているハエトリグサを不思議な気分で見つめた。ツンと尖った牙は相変わらずほれぼれするし、大きな口はオオカミのようだ。
けれど、こんなところにハエトリグサが生えていただろうか。森のなかではふいに風に流されてきたお隣さんが増えるなんてことはよくあること。それだけたくさんの生き物が身を寄せ合って生きている。だからいちいち気にすることではないけれど、あんまりに急に現れたものだから、すこし驚いてしまってはいた。空ばかり見ていたからまったく気がつかなかったのだ。
「お前は……」
と、ハエトリグサが語り出したので、僕は耳を傾ける。
「俺が怖くないのか」
「どういうこと?」
心からの疑問。どうしてそんなことを聞くんだろう。
「逃げたりしないのか」
逃げる、どこに、なにから、変な質問。
「風が吹いたら」
僕は答える。
「風?」
「そう、森を吹き抜けて、野原を越えて、雲より高く昇っていく風」
ハエトリグサは僕をまじまじと眺めた。それから「あっ」と小さく声を漏らす。どうしたんだろう、と思っていると、急に強い風が吹いてきた。
「そろそろ行かなきゃダメみたい。またね」
「ああ、またな」
僕はふわりと宙に浮かび上がり、きらりと輝く牙から遠のいていく。木陰を飛び抜けて、青い空へ。
ふうっ、と俺が息を吹きかけると、ふわふわしたタンポポの綿毛が舞い散った。空に浮かぶ雲に溶けて、すぐに見えなくなってしまう。そうして大きな鼻息がこぼれると、つややかな緑の茎がゆらゆらと揺れた。




