第328話 死に化粧
「俺を殺してくれ」
突然訪れた来訪者にそんな要求をされて、男はほとほと困ってしまった。
しかし、殺す、などという物騒な言葉に困ったのではない。
そもそも殺せないのだ。
すでに死んでいる。
殺しようがない。
相手は腐臭がただよい、蠅がたかる、動く死体、ゾンビなのだから。
「早くしてくれないか」
「……そんなこと言われても、どうすればいいんですか」
「あんたは人を殺すのが仕事だって聞いたぞ」
「そりゃあ、ある意味そうですが……」
男はメイクアップアーティスト。映画や舞台に出演する役者にメイクをほどこすのが仕事。特に死体役への特殊メイクが専門分野。しかし、いま目の前にいる迫真の遺体に比べれば、自分の技術などまだまだ未熟であると痛感せざるを得なかった。ゾンビが身じろぎするたびに男の部屋には死臭がまき散らされ、ぶよぶよした腐肉が骨に引っかかって憐れっぽく垂れ下がる。
「もう死んでるじゃないですか」
そう言われると、ゾンビは、うん、と頷いて、
「その通りなんだが、そう認めてくれない者もいるんだ」
「動いてるからじゃないですか。こう、じっとするとか」
男は死体の真似をして見せたが、ゾンビ相手にそんなことをするのは滑稽そのものであるのを自覚して、起き上がって恥ずかしそうに頭をかいた。そんな男の様子を腕組みして眺めながら、ゾンビは微かに唸り声を上げて、煩悶の表情を浮かべる。
「試してみたんだが、どうもそういうことじゃないらしいんだよ。どうやって死んだかよく分からないのがダメらしい」
「なるほど」
改めてゾンビの全身を眺める。腐敗が進んでいて、いかにも死んでいる風だが、変死死体にしか見えない。死因不明と判断されるのもやむなしだった。言うなれば、死に過ぎている。
「もっと血色をよくした方がいいかもしれませんね。生の痕跡がないと、死は現実から乖離して、夢のなかの出来事のように朧になってしまうものです」
ゾンビは鏡の前に座らされて、自分の姿をまじまじと見ながら男の話を神妙に聞いた。
「一度、生きてるように見せるメイクをしましょう」
男は血で張り付いたゾンビの髪を梳かしてやって、顔にドーランを塗り、肉がちぎれている場所を、特殊メイクで補った。すると死体そのものだったゾンビの体が、少し活気づいたように思えた。
「おお、なんだか生き返った気分だ」
ゾンビは感嘆して、生き生きと動いてみせる。
「そう喜ばれると心苦しいんですが、今から死に化粧をほどこしますよ」
水を浴びせかけられたようにゾンビは分厚いまぶたを瞬かせ、重々しい態度で椅子に深く腰掛け直すと、
「よし、やってくれ」
「ええ」
腹部を中心に血糊が塗られていく。飛び出る内臓は特殊メイクではなく、ゾンビの自前。手足が骨折しているように見せかける必要もなく、実際に骨を折ってねじまげた。そうすると、交通事故で死亡した死体が見事に完成した。
ゾンビは大喜び。これでやっと死亡を認めてもらえると、ほっと胸を撫でおろした。
「しかし、なんでそんなに死んでる風に見えることにこだわるんです」
「それが、聞いてくれよ。死亡保険に入ってたんだが、俺がゾンビになっちまったもんだから、保険会社のやつらは、保険が下りないって言いやがるんだ。おかげで家族が困っててさ。いやあ、しかしこれで安心だ。学費が手に入って息子を進学させられるよ。本当にありがとう」




