第325話 流氷漂流
なんてことだ。
体の芯まで凍える。
怖ろしい冷気が渦巻いている。
仲間は全滅してしまった。もはや俺の運命は死あるのみ。見渡す限り海。足元には小山の如き流氷。その歩みはのろのろとして、命が長らえている間に陸地に辿り着くなどという希望はない。
俺たちは過去の遺物を氷のなかから発掘しようとしていた。はるか遠い先史時代に生きていたものたちの暮らしの詳細を解明するのが目的。しかし凍えた大地に楔を打ち込んだ瞬間、氷山分離が発生し、仲間たちはクレバスに呑まれた。俺は離れていく氷の小山になんとか乗ることができたが、こうなってしまっては、とても運が良かったとは思えない。
防寒具すら貫通してくる槍のような冷たい風はいかんともしがたい。
調査の為に携帯していた道具はあるが、通信機は突然の氷山分離の衝撃で失くしてしまった。残っているのは少量の食料。酒。ピッケル。ナイフ。地図にコンパス。その他、細々としたもの。今の状況を打開できるようなものはない。
途方に暮れて空を仰ぐ。太陽の光すら寒々しい。雲が流れ、鳥が渡る。食料を少しずつかじり、酒をちびりちびりと舐める。
俺のいる流氷は上部が平らになっているので滑り落ちる心配はないが、なにぶん狭い。大人四人ほどが寝そべればこぼれるぐらいのスペース。外側は急な角度で傾いており、もし寝ている間に寝返りでも打って滑落したら海まで真っ逆さま。
俺は怯えながら眠り、いくつかの夜を越えた。刻々と減っていく食料。これがなくなる前にどうやって食べ物を確保するか考える必要があった。死神の迎えを待つだけの身であっても、簡単にその運命を甘受することはできなかった。結末は変わらなかったとしても、苦しむ道を俺は選んだ。
流氷の崖際から覗き込むと海面まではかなりの距離がある。もし釣り具があったとしても、魚を獲ることはできなかっただろう。
鳥だ。鳥を狩るしかない。しかしその方法は分からなかった。奴らは俺の頭上のはるか高くを横切っていて、とても手は届かない。不要な道具を投げつてみた。当然そんな行為は無為に終わる。
そんな俺を嘲笑うかのように、鳥が流氷の上に降り立って羽を休めることもあった。俺は目を血走らせて猛然と襲いかかったが、ひらりと空に逃げられる。体力を失うだけだ。
舞い降りた鳥を仕留めるため、俺はピッケルを振り上げ、振り下ろす。無駄と知りながら何度も何度も。そのたびに氷の小山の表面に小さな穴が空いた。
ある時、俺はふと思いついてピッケルを突き立てた。穴を掘ろう。穴を掘ってその中に身を潜めれば、少なくとも冷風で体温が奪われるのは避けられそうだ。
氷に穴を掘っている間に携帯していた食料が尽きた。それでも俺は掘り続けた。熱中することで、残酷な事実を忘れ去ろうとするように。そうしていると、氷のなかから毛むくじゃらのなにかが現れた。
マンモス。氷漬けのマンモスだ。
その肉は赤々としていて新鮮だった。冷凍保存されていたのだ。
俺はむしゃぶりついた。凍った肉は胃でほどけ、脳を歓喜で満たした。生きれる。そう思った。俺の体はにわかに活力を取り戻し、力がみなぎってきた。
氷のなかに空洞ができて、狭い住居になった。マンモスの毛皮を剥ぎ取り、ボロボロになっていた服の代わりに身にまとった。まるで原始人だが、原始の習慣も侮れない。かなりの防寒効果。今までの服を重ね着しようかとも考えたが、それだと着ぶくれしてしまって、ろくに動けなくなったのでやめた。
マンモスを食いながら、氷のなかを掘り進めた。誤って掘り抜く危険など恐れず、俺は大胆にピッケルを振るった。氷山の一角、という言葉があるように、水上にある氷の塊は全体の一割とされている。その九倍が水中に没しているのだ。そこに更なるお宝が眠っているかもしれなかった。
いま食っているマンモスもいつかは尽きる。その前にもう一頭、手に入らないものだろうか。
やがて俺の希望通り、二頭目のマンモスが見つかった。しかも氷漬けの原始人の遺体もあった。元々の調査の目的だったもの。いまはその姿はむなしく瞳に映るのみ。流石にこちらは食う気にならなかったが、その衣服や、武器として握っていた石槍はいただくことにした。
ついにピッケルが壊れてしまったので、それ以降は石槍を使って掘りはじめたが、効率はかなり落ちてしまった。
俺は二体のマンモスの肉を食いながら、氷山のなかで生き長らえた。潜水艦から顔を出すように時折外を眺めたが、船や陸地などは見当たらない。
ついに二頭目のマンモスを食い尽くした。結局、原始人の肉にも手をつけてしまった。俺はあがき続けたが、次の肉を発見する前に、無情にも俺の命のともし火は吹き消されようとしていた。
ある町に奇妙な流氷が流れ着いた。
その氷の小山の上部には穴があけられており、小動物の巣穴のように洞窟状になっていた。何度か波に呑まれて海水で洗われたようだったが、辛うじて一体の遺体が流されずに残っていた。それは毛皮をまとった氷漬けの原始人だった。
胃にマンモスの肉が確認され、石槍を固く握りしめていたことからもマンモスを狩っていた戦士の遺体だろうと推察された。しかし、同族を食べていた形跡もあり、原始人の間で食人文化があったのかどうかという議論を呼ぶことになった。




