第321話 ノックの音
一番手前の扉を叩く。
コン、コン。
トン、トン、と返ってくる。
ひとつ隣へ。
コン、コン。
ドン、ドン、入ってるよ。
少し怒ったような声。
腹が立つのはこっちのほうだ。そろいもそろってトイレの個室を占領しやがって。返ってくるノック音が結界のように俺を阻んできて、どうにも抜き差しならぬ状況。
最後の一室。一番奥。その扉をノックしようとした瞬間。
コツ、コツ。
と、内側から先にノックの音が響いてきた。
俺が順に個室の扉を叩いているものだから、その気配を察知して先手を打ってきたというわけだ。癪に触る。相手の方が優位だと誇示されている気分。
また、コツ、コツ、と性懲りもなく中からノック。
バカにされているようだ。
頭にきた俺は、腹立ちまぎれに、内側からのノックを無視して、扉を叩いてやった。
ドン、ドン。
……おや?
微かに扉が開く。鍵がかかっていない。しかも細い隙間から覗いてみると、誰も入っていなかった。
おかしい。空耳だったのだろうか。ネズミが壁の中を這いずりまわる音を聞き間違えたとか。そんなわけはないか。
ちょっと気持ち悪いがこっちは切羽詰まった状態。ありがたく使わせてもらうとしよう。
閉じている便座を上げようとした瞬間だった。
便器の内側から、コツ、コツ、とノックの音がした。
俺はドキリと身を震わせ、何事なのかと視線をやった。つややかに磨かれた便座の上部にはトイレの電灯の明かりが映りこんでおり、まるい光輪が目玉のように俺を見返していた。
コツ、コツ。
また音がした。何かが中にいるのだろうか。そんなバカなことはない。
恐る恐る手を伸ばし、虫を追っ払おうとでもするように、トッ、トッ、と爪先で便座の上部をつついてみる。
耳を澄ます。
何の音もしない。
決して気のせいではなかった。確かに何かが、便座の裏からノックをしたのだ。
便座を持ち上げようか逡巡していると、手前の個室から人が出てきた気配がした。俺は足早にそちらへと移って、気味悪い気分を抱えながら用を足した。
帰路にあっても、あのことが頭から離れなかった。なんだったのだろう。きっとネズミだか虫だかが閉じ込められていただけに違いない。そう思って自分を納得させようとするが、うまくいかない。
頭の不調が体にまで及んで、胸がいやにどきどきしはじめた俺はタクシーを拾うことにした。
道路の脇で手を上げると、すぐさま一台のタクシーが目の前に止まる。運転手が手元で操作して後部座席のドアを開けようとしたが、引っかかってでもいるのか、どうもうまくいかない。しばらくすると、手ぶりで自分で開けてくれと指示された。
しょうがないので俺が後部座席のドアを開こうと、手を伸ばした瞬間。
コツ、コツ、と音がした。
目を見開いて、中を覗く。誰も乗っていない。いるのは運転席の運転手だけだ。反射的にその運転手の顔を見たが、早く乗り込まないのか、というような怪訝な表情を返されただけだった。
俺が手を触れる前に、ドアが自動的に開こうとしていた。糸よりも細い隙間から妙な臭気が漂ってくる。俺は急いでそのドアを押さえて閉じた。バタンと大きな音が響く。また、コツ、コツ、と内側からのノック。得体の知れないものを追い払いたいという気持ちが体を動かし、ドアの窓を俺は平手で、パン、パン、と叩いていた。運転手に、なにするんです、と咎められるが知ったことではない。
しばらくすると音はしなくなった。
俺は足早にその場を立ち去った。背後から、ちょっとお客さん、と呼びかける運転手の声が追いかけてきたが、絶対に止まってはいけないという気持ちで足をくり出す。
めまいがしてきた。喉がひりつくような感覚もする。もたれかかるようにビルの日陰に移動すると、自動販売機が目に入った。何か飲もう、そう思って紙幣を投入する。
飲み物を選ぼうと視線を彷徨わせていると、コツ、コツ、と自販機の内側からノックの音がした。俺は慌ててスイッチを乱打した。大量の缶が雪崩のように吐き出される。ガラガラと缶同士がぶつかる轟音がおさまると、静寂と街の喧騒が入り混じるなかに俺は取り残されていた。
飲み物を手に取ることもなく走り出す。汗がだらだらと流れ落ちた。走り続けるうちに陽が傾き、灼熱の夕陽が道を焦がしはじめた。
自宅に辿り着いたのはすっかり陽が沈んだ頃だった。動揺が張り詰めた指先で鞄の中の鍵を探す。なかなか見つからない。焦燥ばかりが頭の中に積みあがる。
コツ、コツ。音がした。
玄関の内側。
家の中から。コツ、コツ。
もう一度、確かめるように。
鍵が開けられる音がした。
俺は一人暮らし。誰もいるはずはない。
こぶしを固く握りしめて、ガン、ガン、と外から玄関を叩いた。
「入ってます!」
そんな言葉が自然と溢れ出た。
何者かが立ち去っていく気配がする。だが、油断はできない。次にどこからやってくるものやら、まるで分からないのだ。
俺は玄関の前で立ち尽くしていた。すると、また扉の内側からノックの音がした。
コツ、コツ。
こちらも必死でノックを返す。
ガン、ガン。
「入ってます!」
我ながら意味不明な文言を垂れ流す。
コツ、コツ、コツ、コツ。
扉の内側の相手は、今度は執拗にノックを返してくる。
「入ってます!」
俺は叫びながら、忌まわしくまとわりついてくるノックの音を払いのけようとしていた。悍ましい怪物がこの扉の裏にいるような気がしてならなかった。
コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ、コツ。
ノックの音は鳴りやまない。耳の奥で嵐のように渦巻いて、もはやその音以外は聞こえなくなっている。俺はひたすらにノックを返し続けた。そうしなければならないという義務感にとりつかれていた。
トクン、トクン。
また、別の場所からノックの音。
ドク、ドク。
俺は自身の胸を激しく打ち鳴らした。
「入ってます!」
ドキ、ドキ。
「入ってます!」




