第3話 赤い衝動
ある日、突然、世界中から赤が消えた。赤という色がなんだかわけの分からない色になった。研究者たちがこぞって原因を究明したが、誰一人として解明に成功する者はいなかった。
なんとも不可思議な異常事態であったが、状況は深刻だった。信号の赤が分からず、事故が多発した。農園で果実が熟したことに気がつかず、次々に腐り落ちた。火の手が見逃され、大きな火災が発生した。
他にも上げればきりのないほどの問題が世界中で湧きあがった。人々は自分たちがいかに赤に依存していたかを思い知らされ、赤を排除する運動が起きた。やがて赤いものは別の色に塗り替えられ、赤い食物は別の食物で代用され、防火の技術も発展した。
数年が経つと、赤を必要としない世界が出来上がっていた。更にはあらゆる国で、犯罪や暴力が激減していた。専門家たちは勝手な意見を出し合った。赤色の持つ興奮作用から解放されたからだと言う者もいれば、赤い肉を食べなくなったからと言う者、そんなことは関係なく、赤を排除する為に皆が一致団結した結果だと言う者もいた。結局、結論が出ることはなく、ただ少しだけ平和になった世界が残された。
人々は赤を忘れ、赤を知らない世代が大多数になった。人類にとってもはや赤は不要であった。そんな頃、ある商品が売り出された。薬を一粒飲むと、限られた時間だけだが赤が見えるというものだった。
初めのうちは懐古主義の老人にしか、その薬は見向きもされなかった。しかし赤の排除運動の折に取り残されていた紅葉の楽しめる場所や、熟した果実が味わえる農園などが薬の製造会社によって紹介されると、新たな娯楽として人々の中に浸透していった。
しばらくすると、人々は赤という色そのものを楽しむようになった。芸術家が赤を象徴する作品を創り、集団で薬を飲み、それを鑑賞するという行事が何度も開催された。
赤を求める動きは徐々に膨れ上がっていた。薬の製造会社には注文が殺到し、効果時間を伸ばして欲しいという声が大きくなった。しかし薬の改良は難航し、そうしているうちに事件が起きた。赤を楽しむ集会で暴力事件が頻発したのだ。
薬について調査が行われ、服用者には暴力的な性質が多々見受けられ、薬への依存傾向があるということが分かった。薬は瞬く間に販売禁止となり、赤は再び更なる厳しさでもって排斥されることになった。
男が自室の椅子に座って薬を眺めていた。隠し持っていた薬もついに最後の一粒。こっそりと飲んで楽しんでいたが、わずかに残されていた街中の赤たちも薬の禁止と共に取り去られていき、なくなってしまった。
ただ薬だけが残されて、赤がないという状況に男はいらだちを感じていた。赤に飢える心が限界に達し、男は衝動的に薬を飲み込んだ。
男の家は赤の排除運動以後に造られたものであり、当然そこに赤があるわけはなかった。置かれた家具や小物類も同様だ。しかし男は諦め切れず、家の中を彷徨った。未練がましく引き出しの中を漁り、棚の裏を覗き込んだりしてみたが、ほんの小さな赤ですらそこには存在しなかった。
落胆で打ちのめされながら男は居間にある椅子にどっしりと腰を掛けた。その時、男の妻が台所から顔を出した。
「指切っちゃった。救急箱取って」
妻は恥ずかしそうに包丁で怪我をした指先を見せた。その傷口から流れる血に、男の視線は吸い寄せられた。男は妻の手を取ると傷口を強く握った。すると見る間に赤は増えて行った。妻は痛がって暴れたが、赤に魅せられた男の手を振りほどくことはできなかった。