第291話 食べ頃
「もう食べ頃じゃない?」
僕が言ったが、彼女は「まだよ」と手を出そうとしない。
「そんな悠長にしてたら腐っちゃうよ」
「簡単に腐ったりするはずないでしょ」
それはそうなのだが、真の食べ頃というのは一瞬で過ぎ去ってしまう。それを逃すと永久に究極の味は失われてしまうのだ。最適な瞬間を見極めて、口に放り込むことこそが、美食家としての務めだと僕は考えている。そして何より、彼女には最上のものを味わって欲しいからこその差し出口だった。なのに。
僕はひとつふたつ先に食べて「おいしいよ」と味の感想を伝えたが、彼女はまだ気をうかがっているように手を出さない。更には僕がしつこく言いすぎたせいで、天邪鬼な心がむくむくと湧き上がったらしくて、意固地になって拒絶する。
ついには、僕に何を根拠に食べ頃だと主張するのかと詰め寄ってくる始末であった。
「色だよ。色づいてきたらもうそれは食べ頃だ。きれいな化粧に彩られて、いかにもおいしそうに見えない?」
「私はそれだと甘ったるくて嫌なのよ」
感性は千差万別だ。誰にだって好みはある。僕はそれを失念していたかもしれないと思い、性急に勧め過ぎたかもしれないと、少し反省した。
「それは、ごめんよ。でもそんなに甘すぎないよ。まだ熟す前なんだ」
「私は熟した後がいいな。分厚い皮を何枚も着込んで、ちょっと渋みが出てきたぐらいが好きなのよ」
「そうなんだ」
付き合う身としては、食の好みは一致していて欲しいのだが、これは諦めるしかなさそうだ。
僕は話題を変えようとして、それでも食というジャンルからは離れられず、味の変化について色々と彼女と話した。
「早すぎるとちょっとまだ味がぼやけてるから」
「そうだね。かといって水分が抜けきってシワシワになったのは食べ応えがないよね」
「そんなの食べたことあるの?」
彼女の瞳には驚きの中に感心を込められていたので、僕は自分の食道楽がちょっとだけ誇らしくなった。
「ちょっとした好奇心でね。渋みがかなり強かったよ」
「へえ。じゃあ、あれはどう。薬漬けの」
「ああ。数える程しかないかな。珍味だから、であえたらラッキーぐらいに思ってるよ」
「私は結構運がいいから、最近立て続けに食べる機会があったのよ」
「いいなあ。うらやましいよ」
「今度見つけたら分けてあげる」
「楽しみにしているよ」
なんとなく、彼女と打ち解けてきたようだ。僕たちは中々相性がいいような気もする。彼女も僕と同じように感じているらしく、ふわりと口元が緩んで、リラックスした笑みを見せてくれた。
そうしていると食事会は佳境に入り、メインディッシュとして成熟した食べ応えのありそうなものをいくつか選んで、食べ比べしようということになった。
誰もが好きな味。定番の味だ。けれど比べてみると、違いがあって、舌の上で転がすと微かに異なる風味が漂う。それが満足感を非常に高めてくれるのだ。
彼女も楽しんでくれているようだった。よかった、と僕は心の中で息をついて、彼女に差し出す為の美食を探して夜道に視線を躍らせた。
路地裏を歩くなよ、と部長が言ってたけれど、近道なのだからしょうがない。物騒なのは承知している。最近、この辺りで行方不明者が多いなんて話は耳にタコができるぐらい聞かされているのだ。けれど、俺は少しぐらい危ないとしても近道を選ぶ。この道を通らなければ、かなり大きく回り道しなければならない。
運動が大嫌いだから、歩くのだって嫌いだ。ちょっとばかり腹が出っ張ってきたが、まだまだ俺は健康。仕事する体力があれば、問題はないはず。それ以上を求めるなんて野暮な話で、余計なお世話というもの。
しかし、今日は妙に暗い。夜とは言え、いつもは星明りで足元ぐらいは見えるのに、今は膝から下が闇に呑まれてしまっていて、まるで水に浸っているようだ。
空を見上げると雲がかかっているのか、星が見えない。ぽつり、と何かが降って来た。雨かと思ったが、顔にかかったその雫を袖で拭うと、ねばついていてひどい匂いがした。
一刻も早く明るい所で汚れを確認したい。場合によってはスーツをクリーニングに出さなきゃならなそうだ。勘弁してくれよ、と思った瞬間、俺の体は宙に浮きあがった。
首根っこを何かに引っ張られている。悲鳴を上げる暇もない。
さっき嗅いだひどい匂いが充満している穴が、ぽっかりと空に開いて、縁に並んだ鋭い棘を煌めかせ、俺を待ち受けていた。




