第284話 地獄の谷
「もう逃げられねえ。どうしよう」
「どうしようもこうしようもねえ。やるしかねえんだ」
俺と相棒は地獄の縁の崖の前で立ち往生していた。恐ろしく深い谷。向こう岸は見えるが、飛び越えられそうにはない距離。走り幅跳びの世界チャンピオンだって、この距離は無理だろう。崖の下は真っ暗な闇が凝っており、既に死んで地獄に来た身であっても、落下したらどうなるか分からない。凄まじい苦痛が待ち受けていることだけは容易に想像できた。
相棒は後ろに下がって、助走するべく構えた。全速力で荒い砂を踏みしめながら駆ける。そして、いざ跳躍しようとした刹那、腰が引けて背中から地面に倒れ込んだ。
「怖え……」
俺だって怖い。だから相棒の弱気を責めることはできなかった。
「何か、橋を渡す手段はねえかな。それともこの谷に沿ってぐるっと回ると、どこかに橋があるかもしれねえ」
夢のようなことを話す俺に、相棒は荒々しく鼻を鳴らしただけだった。相棒も俺の弱気に呆れつつ、それを責めることができないのだろう。
そうしてなんだかんだと理由をつけて躊躇しているうちに、遠くで砂煙が上がりはじめた。
「やべえ。追いついてきやがった」
鬼だ。俺たちは地獄の責め苦から逃げ出してきたのだ。当然、鬼たちは躍起になって俺たちを捕まえようとしている。
「くそっ。くそっ。ここまで逃げれたっていうのによう」
悪態をついても事態は何ら改善されない。谷の向こう側に目を向ける。飛ぶしかないのだろうか。しかし、落ちたら……。
そうして崖の下を覗き込んでみると、岩肌にいくつもの出っ張りがあることに気が付いた。でこぼことしていて、手ごろな距離で突き出した岩が配置されている。
「おいっ、おいっ」
俺は相棒を呼んで、見つけたものを指差した。
「下に逃げるか……」
「ああ。少なくとも鬼たちから身を隠すことはできる。それに、崖の底まで下りて、そこから登れば谷を越えられるんじゃないか」
我ながら、なかなか冴えた方法のような気がした。完全に追い詰められた状況にしては、上出来な策だ。
相棒も俺の意見に同意してくれた。俺が先を行って、相棒がその上に続く。
出っ張りに足を乗せ、別の出っ張りを、ぐっ、と手で掴む。出っ張りは足の先が何とか乗せられるぐらいの心もとない大きさだが、それでも数が多いので両足でしっかりと踏ん張ると姿勢が安定した。下りるのを想定されているかのように、無理なく通りやすい経路がある。俺と相棒は道を確かめ合いながら、延々と下っていった。
光が届かないところまで来ると、崖の上がなにやら騒がしくなった。俺と相棒を探している鬼たちが崖の縁に到着したらしい。
「きやがったな」
天に唾でも吐きかけそうな調子で相棒が言う。
俺は早くも自分の判断を後悔しはじめていたが、それでも上で鬼たちに捕まるよりは随分ましだと思っていた。だから必死で足を運んで、崖の下を目指す。
どれだけ下りたか分からない。いつまでたっても底にはつかない。死者であっても喉が渇き、腹が減る。それが地獄の道理なのだ。そうでなければ、鬼たちが俺たちに苦痛を味わわせることはできないのだから。
渇きは喉を締め付けて、どうしても耐えられない苦しみが膨れ上がった。
「喉が渇いた」
「言うなっ!」
俺の呻きを押さえつけるように相棒がわめく。憔悴しながも動きを止めることはできない。ここまで来たら崖から上がることも難しくなってしまった。遥か高みで空が真っ二つに割れたように見える端っこに、鬼の二本の角が突き出している。
鬼は崖から下りて追ってくるでもないが、俺たちをじっと見ている。俺たちの全身はもはや闇に呑まれているはずなのだが、はっきりと視線が向けられているのを感じた。そして、鬼の影が少し膨らんだかと思えば、空から何かが降ってきた。
「うわっ!」
俺の頭の方にいる相棒が声を上げる。
「どうした?」
「痛え……。くそっ。鬼め! 熱湯を垂らしてきやがった」
言うや否やまた降ってきたらしく、相棒が悲鳴と共に身をよじった。相棒が避けた灼熱の雨粒が俺の方へも降りかかってくる。
「うぐ」
熱い。熱湯というより、熱した油だ。顔にへばりついてきて、触れた場所にじりじりと鋭い痛みが走る。
しかし一方で、どうしようもなくなっていた喉の渇きを潤してくれそうでもあった。
俺は口を開けて、雫を受け止めた。舌が痛い。喉が焼ける。けれども飲まずにはいられない。相棒も泣きながら、俺と同じように熱した油のようなそれを飲み下しているようだった。
地獄に囚われた身の憐れさ。こんなものであっても、己の苦しみを和らげる為に受け止めなくてはならない。
二人で散々泣きわめきながら、下へと進んでいると頭上からもたらされていた明かり陰った。地獄には太陽がない。灼熱地獄の炎の勢いが微かに強まったり、弱まったりすることで、地獄の昼と夜が形作られている。
夜になれば眠くもなる。地獄であっても同じ。耐え難い睡眠への欲求が、起きて、岩を掴もうとする意識とせめぎ合う。
「交代で、眠らないか。横に並んで出っ張りに掴まって、起きている方が支えるんだ」
相棒が言う。そうでもしなければ二人とも落下してしまいそうだ。どちらが先に眠るかで、俺たちは目を見合わせた。先に眠りたい。けれど本当にこの相棒は信頼できるのだろうか、という考えが湧き上がる。不注意で落とされてしまうかもしれない。けれどそれは、後になったとしても同じことだ。
「俺が先に眠る」
と、言ったのは同時だった。ここまで逃げてきた似た者同士、思考回路も似ているらしい。けれど口先では相棒が上だった。俺はこの崖を下りることを提案したことをなじられ、眠るのは後回しにされた。
相棒は目をつぶって崖にへばりつくようにしながらじっと体を固めた。支える必要もなさそうだったが、俺は緊張しながら相棒の背中に片手を置いた。
静寂。
相棒は意外に早く目を覚ました。というよりほとんど眠れていないようだった。次は俺の番。けれど俺も相棒と同じく、ほとんど眠れないまま、ただ疲労を体の芯にしみこませるだけの結果になった。
俺たちは言葉も失って、崖を下りていく。上に見える裂け目は大分遠のいたが、それでも鬼がまだ覗いているのが分かった。
油が時折垂らされて、俺たちを苛み、また喉を潤しもした。悪意と善意が表裏一体になった行為のようだが、鬼には善意の欠片もないだろう。俺たちの渇きを癒すことは、苦しみを長引かせることでもあるのだから。
疲労で手が、かじかむ。視界は掠れ、足元はおぼつかない。何度も滑り落ちそうになりながら、ぎりぎりのところで耐える。
いっそ崖を離して、この奈落にどこまでも落下してしまいたい。そう思った。
もしかしたら、この下に底などないのではないか。延々と落ち続けて、無限の空中遊泳を楽しめるのではないか。そんな誘惑が頭をかすめた。
そう思った瞬間、体が自動的に動き、俺は手を離していた。
相棒が俺の手を掴んだ。
けれど、その手はすぐに離され、絶望で満たされた顔がどこまでも遠のいていく。
その顔は俺自身の鏡写しであった。
暗い。風を切る感覚が心地よい。いや、風を切っているんじゃない。俺は風に切り裂かれている。痛い。苦しい。
気が付いた時には俺の四肢はバラバラになっていた。けれど意識は鮮明だ。
こんなことになるならば、逃げなければよかった。それとも、いっそ崖の上で向こう岸に飛んでみるべきだった。なぜ俺は崖を下ろうなどと言ってしまったのか。後悔の念だけが、湧き上がる。
光だ。
地獄の谷に底があったとは。
もしかして、助かるのか?
空から降ってきたという遺体は行方不明になっていた凶悪犯のものだった。
都会の真ん中で、突如、遺体が現れたというこの怪事件は世間を賑わした。
バラバラになった体はかまいたちに切り裂かれたように、きれいに寸断されている。
顔面中に火傷の痕があり、それは口内、喉の奥にまで広がっていた。
見るも無残なその遺体は速やかに警察の手で回収された。そして、そんな鮮烈な出来事も、すぐに世間の荒波に呑まれて忘れ去られた。
担当していた刑事は凶悪犯の許しがたい犯行の数々に想いを馳せた。そして焼かれて処分される遺体を前にこう言った。
「お前は確実に地獄行きだ。例え十回、二十回、地獄で責め立てられても、お前の罪はなくならないだろうよ」




