第274話 ほら吹き男
「おじさん。ほら吹き男でしょ」
ドキリとして振り返る。
あどけない少女が俺を見つめている。
無垢な瞳には一片の悪意すら存在しない。
「……違うよ」
俺は言ったが、その声は子供にも分かるぐらいに震えていた。
「ほら、うそだ」
「いや。俺は正直者さ。お嬢ちゃんの勘違いだよ」
俺は抗弁したが、少女はきょとんとして首を傾げただけだった。
「ほら吹き男!」
少女がはやし立てるように言うと、子供たちが集まってきてしまった。
「違う! 俺は正直者だ!」
俺は逃げた。
背中に「ほら吹き男!」という子供たちの声がいくつも突き刺さる。
心の中で言い訳を垂れ流す。
俺はほら吹きじゃない。
俺はほら吹きじゃない。
確かに、かつての俺は、ほら吹きだった。それを否定することはできない。
けれど、今、はもうやめたんだ。
天才的な詐欺師だった。嘘つきだった。
新聞では俺のことを、世紀のほら吹き男、として書き立てた。
だが、もう違う。俺はほら吹きではない。
本当にそうだろうか?
自問自答する。
吐き出した嘘はひっこめることはできない。
コーヒーに入れたミルクを分離できないようなものだ。
時をさかのぼることは不可能。
事実を捻じ曲げられない限り、俺はほら吹きから逃れられない。
けれど事実を捻じ曲げようとすれば、ほら吹きであることを認めたことになる。
俺のついた嘘たちが俺を追い詰めるようにのしかかってくる。
いやだ。
助けて。
走り続けた俺は、見知らぬ街に立っていた。
俺に一晩の宿を用意してくれた女は、肌を重ねた後におもむろに言った。
「あなた、ほら吹き男でしょ」
心臓が跳ね上がる。
やっぱり、そんな気がしていた。
彼女は気が付いている。そうでなければ、こんなことをするはずなかったのだ。
みっともなく裸のままうろたえる俺に、彼女は包み込むような微笑みを向けた。
「怖がらないで。ほら吹きなんでしょ?」
その言葉は慰めるような、励ますような響きを帯びている。
「違うっ!」
俺はあくまで抵抗した。
「やっぱり。そうだ」
「違うんだっ!」
なおも言って、俺は手あたり次第に服を拾い上げて、慌ただしく身にまとうと部屋を飛び出していった。
彼女の声が追いかけてくる。
しかし止まる訳にはいかない。
俺はもう、ほら吹きではないのだから。
疲れた。疲れ果てた。
どこかで休みたい。そう思った時、農村の隅で暮らしている家族が俺を家に招いた。
怯える捨て犬のような俺を、その家族は優しくもてなしてくれた。
やっと真に安らげる場所を見つけたような気がする。
そんな風に俺は考えていたのだ。
それなのに。
「なにか、旅の話でもしてくれないか」
その声色。
期待されているのが分かった。
俺に、全てを背負わせて、甘い夢を見ようとしている奴らが出す声色だ。
知っている。
この家族は知っているのだ。
俺がほら吹き男だということを。
次はこうだ。
「私たちは村から出たことがないから、外のことはよく知らないんだよ」
無知を強調し、どんな嘘でも受け止めるというサイン。
お茶の間に座った家族全員が俺に視線を向ける。
楽しい番組が始まる寸前のテレビを見つめるようなな面持ち。
息が詰まる。
息が、できない。
言葉が、出てこない。
「どうしたんです」
心配げな表情。けれど、それは、機械の故障かな、という、ちょっとした不安が入り混じった、人ではないものに向ける感情のように思えてならない。
「どこに行くんですか」
どこだっていいだろう。
「あなたに行く場所なんてないんじゃないですか」
そんなことは分かっている。
「ほんの少しだけでいいんです」
そう言って、いつまでも俺を縛り付けて、この喉が擦り切れるまで使うつもりなのだ。
「待ちなさい!」
ついには強硬手段。ほら見たことか。それがお前らの本性。正直者の末路だ。
ちょっとだけ、うらやましい、と思わないでもない。
追いすがろうとする手を引き離し、俺はまた一人になる。
自分で自分をだます必要はない。
一人ならほらを吹く必要もない。
だから、もう、俺は一人でいよう。
誰もが嘘を求めている。甘美な嘘をつく、ほら吹き男を。
今や、嘘つきは利用される側。
降り積もった嘘で押しつぶされ、痛みを伴う役割を、お仕着せられる存在。
だが、そうはいかない。
簡単に利用されてやるものか。
どこまでも逃げてやる。




