第269話 臆病な男
その男は枯れ木のように存在感がなかった。だから、酒場の隅に彼が座っているのに気がついたのは、本当に偶然の出来事だった。
その日は仕事で失敗してしまい、俺は心底落ち込んでいた。さりとて、あまり飲む気分でもなく、ただ酒場の空気に呑まれたかっただけだった。そして偶々その男の隣、酒場を見渡せる隅の席に腰掛けたのだ。
それでも、男の存在に気がついたのは、大分時間が経ってからだった。
男は酷く痩せこけていて、陰気な顔つきをしていた。飲むでも、食うでもなく、ただバカ騒ぎする他の連中を、なんだか物欲しそうな顔でちらちらと眺めている。
俺はふと気まぐれを起こして、そんな男に話しかけてみた。
「どうも」
軽く声を掛けると、男は心底驚いたように、仰け反って、瞳を激しく瞬かせた。
「すみません。驚かすつもりはなかったんです」
「……いえ。私は臆病な性質でして」
「そうなんですか。ちょっとばかり、話し相手になってはくれませんか」
こう申し出ると、男は逡巡していた様子だったが、やがて小さく震えながら、こくり、と頷いた。
「いいですよ。私で良ければ」
その声も震えている。夜だけれど気温は蒸し暑いぐらいで、他の客から伝わってくる熱気も相当なものだから、寒さのせいでは断じてない。
「ありがとうございます。それで、なにを見てらしたんです」
俺が尋ねると、男は視線を彷徨わせた。
「何、ということもないですよ。ただ人を眺めてたんです」
「人、ですか」
言って酒場のなかを振り返った瞬間、俺が持っていたグラスから一滴の水滴が飛んだ。それは男の肌にぶつかった。男は低い呻き声を上げて、席から飛び退いた。
「ああ。失礼」
俺の謝罪が聞こえていないかのように、男は飛沫が触れた場所をまじまじと観察して、その雫をふき取ると、ほっと息をついた。
「本当にすみません。けど、そんなに驚かなくても」
男は俯きながら俺の指摘に弁明しようとしてか、魚のように口をぱくぱく動かしたが、その時、酒場の扉が開いて、外の湿った空気が吹き込んできた。男はそれにもびくりと体を震わせて、尾っぽを踏まれた猫のように伸びあがってしまう。
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ」
慰めるように言ってみる。気まぐれに話しかけてみただけなのだが、なんだか、男が憐れに思えてきた。
「あなたは、怖くないんですか」
聞かれて考えてみる。水滴や、風なんかを怖がる理由があるだろうか。
「俺は昔から、怖いもの知らずでしてね。勿論、嫌なものはごまんとあるが、怖い、というほどではないかな。突き詰めて考えてみれば、結局、死ぬこと以外に怖いことなんてないんですよ」
「……じゃあ、死ななかったらどうです」
男の陰気臭い顔が、更に影で染まっている。
「死ななかったら、ですか。まあ夢みたいな話ですが。それなら、本当に怖いものなしだ。好き放題できていいんじゃないですか」
俺の答えを聞いた男は、くつくつと厭らしく笑い出した。それが馬鹿にする風であったので、幾分か、むっ、とした俺は、一杯だけと思って頼んでいたグラスを一気に空にする。
そんな俺の様子に怯えたのか、男は取り繕うように、
「すみません。あなたを笑ったわけじゃないんですよ」
と、平謝りした。
「じゃあ、なんだっていうんです」
「それは、その、昔話を思い出しましてね」
「へえ。どんな話なんです」
男が語った話は不思議なものだった。
悪魔と取引した男の話。
その男は不老不死を願った。
悪魔はその願いを叶えた。
そして、男は意気揚々と好き放題をしはじめたのだと言う。
けれど、男には誤算があった。
不老、そして、不死。
しかし、肉体が永遠だという保証はされていなかった。
男はある時、怪我をした。
男は死なないが、怪我は治らなかった。
男は老いないが、病には侵された。
男は全てを恐れるようになった。
「おかしな話ですね」
「そうですか? この男の立場になったらあなたならどうします」
「そうだなあ。人里を離れて、一人で暮らしますかね」
「それはいけませんよ。なにせ自然というのは恐ろしいものですからね。蜂や虻に刺されるかもしれない。漆などの植物でひどくかぶれるかも。樹が倒れてくるかも。山が崩れるかも。雷や大雨といった災害もあります」
「ふーん。成程。じゃあほどほどの田舎町がいいんですかね」
「人が少ない田舎町だと、ずっと生き続けるその男は目立ってしょうがないでしょうね。正体を知られてしまった男はどうなると思います」
「どうって、まあ化け物みたいなもんですが、人畜無害なわけでしょう」
「そうです。けれど、小さな集団ほど部外者を排除したがるものなんです。それがちょっと変わった人物であるなら特にそうでしょう」
「確かにそうかもしれませんね。じゃあ。治安のいい街が一番ってことですかね」
「それもダメなんです。そういった街では何かと存在証明が必要になってくるわけですね。男はたった一回でも見咎められて、例えば監視カメラか何かに映って、データとして登録されてしまったりでもしたら、終わりのない一生を、追われ続けることになるんですよ。政府か、研究所か、実験材料として使われるためにね」
「それは、映画か何かの見過ぎじゃないですか。そんな男の話の時点で荒唐無稽なわけですが、もしいたとしても、案外、誰も気にしませんよ」
「そうでしょうね。実際はそうでしょう。でも本人からしたら、なにもかも考えずにはいられないに違いないですよ」
「うーん。そんな状況、俺には想像できませんね」
おかしな話はそこで打ち切られて、俺がぼんやり店内を見回していると、いつの間にか男はいなくなっていた。
それから次の日になると、俺は男のことも、男から聞いた話も、すっかり忘れて、ただ日々の糧を得て生きるために、街を歩き、人に呑まれ働くのであった。




