第261話 平べったい足跡
この世界というのは裏と表で繋がっているのだという。ずっとずっと真っすぐに進めば、元いた場所に戻ってくる。学校の先生はそんな風に言ったが、僕には到底信じられない話であった。
学校から帰る道の途中、延々と広がる世界を眺めて、いつかそんな最果てを旅してみたい、と僕は思った。
家に帰ると、温かい夕食の香りがした。学校の荷物を置くと、すぐに母が呼びにくる。食卓には暖かいシチューが美味しそうな湯気を立ち昇らせていて、寒風で冷えた体がぶるぶると喜びで震えた。
食事を終えると、部屋に戻って勉強。宿題はきちんと終わらせる。次のテストで良い点を取れば、父がお願いを聞いてくれることになっているのだ。
宿題をしていると、隣の部屋からぺた、ぺた、と音が聞こえてきた。隣は兄の部屋。壁を手のひらで叩いているような音。ちょっと耳障りだけれど、文句を言いに行くほどではない絶妙な塩梅。なので無視して宿題に没頭していると、やがて聞こえなくなった。
この家は古い木造だから、歩く度にあちこちがギイギイと嫌な音を立てる。だから気を付けて歩くようにしているが、それでも慌てていたり、重い物を運んでいたりすると、どうしても家が軋む。
だから、どこかから音が聞こえても、家族の誰かが家を歩いている音だろうと思った。けれど、その日に限っては、少し様子が違っていた。
妙な音が聞こえてきたのだ。
僕は丁度、テストの結果のご褒美に買ってもらったばかりのギターの練習をしていた。最近、僕の学校では吹奏楽、楽器演奏などが流行っていて、僕もそれにまんまと感化されて、父にお願いして、安いギターを買ってもらったのだった。
はじめはそれに気がつかなかった。けれど、楽譜をめくろうと、ふと演奏を止めた瞬間、どた、どた、どた、という荒々しい足音がはっきりと耳に届いてきた。
屋根裏にいるネズミかな、と思った。ちょっと足音が大きいので、大ネズミかもしれない。
手を止めて、じっと耳を澄ます。けれど、それ以上は何の音もしなかった。ただ窓の外から時折通り過ぎる車の音と、自転車に乗った誰かの鼻歌が聞こえるばかりだ。夕日がそろそろ落ちかけている。田舎町なので近所迷惑を考える必要はなく、夜に楽器の音を出しても問題はないのだが、今日は練習を止めることにして、ギターを壁に立てかけた。
次の日、また妙な音が響いてきた。その次の日にもだ。僕は兄に聞いてみたが、兄にも聞こえるのだという。父や母にも相談すると、古い家だからという諦観に似た言葉が返ってきた。けれど僕がどうしても気になるのだと言うと、次の祝日にでも、原因を調べてみようということになった。
祝日を待つ間にも、足音は激しさを増していった。父や母の耳にまで届き、それは天井の上だけでなく、床の下からも聞こえてきた。兄が壁を叩いているのかと思っていた音も、いざ兄の部屋に行って聞いてみると、僕の部屋からの音だと言われてしまった。どうやら壁を移動しているらしい。
こうなれば業者を呼ぼうかという話になったものの、田舎町故に、それだと大分時間がかかってしまう。だから、前から決めていた通りに、祝日になったら、一旦、自分たちで様子を確かめようということになった。
家で起こっている怪異になんだか憂鬱な気分になりながらも、学校はそんな僕の気持ちとはお構いなしにやってくる。勉強を休むわけにはいかない。教室のなかはしんとしていて、みんな読書に勤しんでいる。最近流行りの小説をみんな読んでいるのだ。僕はそんなクラスメイト達を横目に、既に登校していた友達とこそこそと話し込む。
怪異のことを相談してみるが、家鳴りだよ、と訳知り顔で返されてしまう。そんなわけない、と言い返したかったが、僕はこんなことで言い争うのも馬鹿らしいと思って、そうかもしれないね、と曖昧に頷いた。
授業ではまた世界のお話だ。世界には次元というものがあるらしい、一次元、二次元、三次元、四次元、どんどん増えて、際限なく存在する。
先生の話は難しくてちんぷんかんぷんだったが、それでも僕は別の次元というものが存在するという一点だけは理解した。そうして、別の次元の生き物というのはどんな姿をしているのだろう、などとぼんやりと考えていた。
遂に祝日がやってきた。決戦の日だ。父は天井裏、兄は縁側から床下を調べることになった。母と僕はその手伝いだ。
父は小さな木の箱の上に乗って、天井板を浮かせると、天井と屋根の間にある狭い隙間を覗き込む。懐中電灯を何往復かさせたが、何も見つからなかったらしく、僕に脚立を持ってくるように頼んだ。
僕が早速、脚立を探し出してきて、父に渡すと、父はその上にのぼって、這うようにして天井裏に入っていく。
そんな時、兄が血相を変えて、僕のところへやってきた。足跡が見つかったのだという。
僕は兄に手を引かれて、縁側にやってくると、懐中電灯を借りて、その下を覗き込んだ。
床下には土と細かな石、それに雑草しか見当たらない。微かに何かが動いた気がしたが、それは小さな昆虫であった。そもそも土は乾いているので、ネズミの足跡が残るような状態ではなく、その糞すらも見当たらなかった。
僕が足跡など見当たらない、と言うと兄は、床裏だ、と言った。
言われた通り、懐中電灯の丸い光の輪っかを上方向、床裏の方向へと向ける、すると、そこには確かに足跡があった。
はじめは真っ暗な焦げ跡かと思った。墨で汚れた足の裏で踏みつけたかのような、影がこびりついたみたいな足跡。
それはネズミのものではない。どんな小動物とも違う、人間の足跡だった。
五本に分かれた指の形がはっきりと分かる。それも少し大きなものや、小さなものが入り混じっている。複数人の足跡だ。大人や子供の足跡にも見える。しかし、床裏と地面との隙間は、僕の頭が入らないぐらいに狭い。そんなところを人間が歩き回れるはずがなかった。
父の悲鳴が上がった。僕らが駆け付けると、眩い光がそこにはあった。
僕らは逃げ出すが、光の輪はどこまでも追ってくる。
どた、どた、どた、と足音を響かせながらどこまでも走る。
けれど、学校の先生が言っていた通り、この世界は裏と表が繋がっていた。どこまで行っても逃げることはできない。
僕らは同じ場所をぐるぐると回り、延々と光の輪と追いかけっこする破目になってしまう。無慈悲な追跡者、三次元からの刺客から逃れる術など、僕らは持っていなかった。




