第257話 風船ゾンビ宇宙に行く
僕はゾンビだ。もう心臓は動いてないけど、それでも胸が高鳴る時がある。それは彼女を見つめる時だ。
丘を越えた窪地に建っている一軒家。そこに彼女は住んでいる。猟銃を構える姿は凛々しく、その鋭い眼光は僕のハートごと撃ち抜いてしまったのだ。
彼女の家に今日も行く。挨拶をしても返ってくるのは鉛弾だけ。ついには大事な頭を潰されそうになり、僕は丘の方へと逃げ帰る。頭を潰されれば、ゾンビといえども一巻の終わりだ。
彼女はとっても怒っている。僕に対して怒っているのだ。それは僕が彼女の犬に噛みついたから。そうして犬がゾンビになったから。
ゾンビ犬は僕と大の親友になった。けれども、そのゾンビ犬の頭を潰して、ゾンビとして活動できなくしたのは彼女だ。彼女の犬を奪ったのが僕なら、僕のゾンビ犬を奪ったのは彼女。これはお互い様なのではないだろうか。彼女の怒りはもっともだけれど、その点では僕だって怒っているのだ。
それでも彼女への思いが冷めることはない。彼女のことを考えると冷え切ったゾンビの体に、熱が宿るような気がする。
そうして、何度目かの彼女へのアタックを敢行した時、僕は足を打たれて、ぽっきり折られてしまったのだった。これは困った。歩くのも困難だ。這いずる僕に対して、彼女は用心して距離を取っているが、こんな状態で彼女に近寄ろうものなら、瞬く間に頭を潰されて、ゾンビの命が消されてしまう。命はないけど、まだあるのだ。命からがら、からっぽの命を拾って僕は逃げる。
頭を撃ち抜かれないでよかった。なんとか丘の上まで這ってこれた。しかしこれからどうしようか。足がなければ歩けない。片足だけでは歩けない。歩けなければ彼女の元へ行けないではないか。いや、行けないことはないのだが、それは、あの世へと逝く旅路と変わらなくなってしまう。
僕はコチコチになった頭を冷やそうと、丘の反対側、山の方へと向かって行った。せめて高い所から、彼女の姿が見れないかと思ったのだ。
山を登るにつれて、丘の稜線の向こう側に彼女の住む家が小さく見えた。けれど流石に遠すぎて、彼女の姿までは確認できない。それでも諦めきれなくて、更に高くを目指していると、不意に山のてっぺん辺りから熱いガスが吹き降ろしてきた。
体がふわりと軽くなる。ガスの正体が分かった。これはヘリウムガスだ。
僕は腐った脳でピンと閃くことがあって、もう使っていない干からびた内臓を体から取り出しては捨てていく。そうしてスカスカになった骨と皮と心臓だけの胴体にガスをいっぱいに詰め込んだ。
ガスが抜けないように手で押さえると、なんとか体が膨らんできた。そしてぷかぷか浮かびはじめる。風船ゾンビの完成だ。
これで彼女の家を訪れ、空の上から眺めることができるに違いない。
意気揚々と空を飛ぶ。しかし、邪魔者が現れた。それはカラスだ。カラスの群れだ。
カラスは、ぱんぱんに張り詰めた僕のお腹をつつき回す。そうして穴が空いてしまうと僕は、ぴゅうぴゅうガスが漏れる悲しい音を立ながら、地上に落下してしまう。
彼女を想い、僕は飛ぶ。何度だって飛んでやる。風船になるのもなかなか様になってきた。慣れた手つきでガスを詰める。
カラスは何度もやって来る。僕はカラスに噛みついて、一匹一匹始末する。カラスもゾンビになると、もう僕の友達だ。そうしてゾンビカラスを引き連れて、彼女の家まで辿り着いた。
彼女に会えたと思ったのも一瞬だ。丘を越えた辺りで、彼女に撃ち落とされてしまい。またしても僕は落下する。地面に叩き付けられて、頭を狙う銃口を躱し、ほうほうの体で逃げ去った。
万事休すと思ったが、それでも、僕は飛ぶことにした。夜に紛れて空を飛ぶのだ。それなら彼女に近付ける。
えっさほいさと山登り。片足がないからケンケンだ。もしくは這って進むのだ。
月が昇ると同時に登頂。すると、山がぐらぐら揺れ出した。これはイカンと思った僕は腹にガスを詰め込んで、さっさと逃げることにした。けれども彼女の銃弾で、破けた腹の傷は深く、うまくガスが溜まらない。
もたもたしてると、鳴動は激しくなり、遂には山が噴火した。
放出される強大な力。爆発による風の奔流に吹き飛ばされて、僕は空へと打ち上げられる。
これはとっても困ったことだ。困ったことになってしまった。なにせ僕はゾンビなのだ。ゾンビじゃなくても困るだろう。ぐんぐん空を上っていく。このまま成層圏に突っ込めば、僕は燃え尽き、灰になるのだ。
弾丸のように飛ぶ僕に、重たい空気が纏わりついて、腕を動かすことすらできない。
ゾンビカラスの群れを抜け、雲を越えて、その上の薄い空気の層へと飛ばされていく。
もやは打つ手はないかと思ったその時、突然、隕石がやってきた。僕にぶつかり雲を貫く。宇宙からやって来た無数の隕石が、散弾のように地球へと降り注いだ。
僕は隕石の一つに掴まって、なんとか地表へ舞い戻った。それは偶然彼女の家だ。彼女の家の屋根に着陸したのだ。
彼女も屋根に上って来た。なんという運命の出会い。そう思ったのも束の間だ。山の方から壁のような溶岩が流れてくる。
どろどろ、どろどろ、溶岩が迫る。この家なんてひと呑みだ。丘に上った溶岩は、下りになるとジェットコースターみたいに一気に近付いてくるだろう。
彼女は呆然と丘を見上げる。そんな彼女を僕は見上げる。そろそろと屋根を這って近付いて、遂に彼女を捕まえた。
彼女は涙を流していた。僕を攻撃する気力すら失っているようだった。僕はそんな彼女を慰める。大丈夫だよ、声を掛ける。声を掛けたつもりだけれど、内臓を捨ててしまったからか、喉からは録な音が出ない。
しかし、僕だってこの状況をどうにかできるわけじゃない。噴火の時に少しは腹にガスを溜めたが、二人で浮き上がれるほどではない。これでは自称風船ゾンビの名折れだ。
そんな時、颯爽と空からゾンビカラスがやって来た。そうして僕を引っ張って、空へと舞い上がったのだった。
いいタイミングだ、ゾンビカラス。昔は喧嘩ばかりしていたけれど、ゾンビになってからは、大の親友同士。
僕は彼女を捕まえて。二人一緒に、ゾンビカラスに運んでもらう。
足元に広がる世界はどこまでも灰色だ。文明なんか残ってやいない。ゾンビに全て食いつくされて、天変地異にも何度も晒された。
そうして空を飛んでいくと、とんがりのっぽの塔が見えた。鉛筆みたいに尖ったそれは、よくよく見るとスペースシャトル。
僕らは上空からシャトルを支える足場に降り立って、非常用の扉から中に入った。
シャトルが揺れる、出発するのだ。地球を捨てて、宇宙へと。
彼女は僕に戸惑いながらも、お礼の言葉をぽつりとこぼした。
それは甘美な響きを帯びて、僕の心臓を微かに揺らした。
彼女の髪がさらさらと震える。
ああ、なんていい匂いなんだ。生きている匂い。生きている肉。生きている命。
なんてことだ。僕はゾンビだ。
僕は彼女にかぶりついた。
美味しい。
美味しい。
僕はゾンビだ。




