第255話 卵のニワトリ
男は凶悪な目付きで僕の持つニワトリをねめつけた。
分かっていた。旅を長く共にしていれば、そいつが奪う側か、奪われる側かを察することができるようになる。僕はこの男が奪う側だということに気が付いてはいた。だがこの荒野を進むには、他の旅人に襲われないために、僕のような奪われる側の人間はこういった奴の後ろに隠れるしかないのだ。それが僕が荒野で学んだことの一つだ。
しかし、この状況はいけない。まだ猶予があるかと思っていたが、ついに踏み切ったという感じだ。
ニワトリを奪われるわけにはいかない。
「そいつは卵なんだよ」
男は不可解なことを言う。
「鶏肉が食べたいのなら、はっきり言えばいいだろう」
僕は強気を保って、付け入られないように注意を払いながら、ニワトリを強く抱きしめる。
「違うんだ」と男は言うが、その目は異様な輝きを帯びていて、そんな弁解は滑稽でしかなかった。
「ニワトリたちも考えやがったのさ。卵を産めば食われちまう。じゃあどうすればいいか。自分が卵になっちまえばいい」
「僕を馬鹿にしてるのか。そんなでっち上げでニワトリをむざむざ渡すわけないだろう」
確かにこのニワトリは卵を産んだことはない。けれど、いつかは産むはずだ。そうなった時に、卵にありつくのはこの僕以外にはいないのだ。
突っぱねてやっても、男はなおも続ける。
「卵を産まなければ、あんたみたいなお人好しが守ってくれる。それに、そうやって大事に抱えて温めてももらえるって算段さ。なんとも狡猾に、強かに生きてやがるだろう」
同意を求められても、頷くはずなどない。
「分からねえかな。その卵から何が産まれると思うよ」
「ニワトリの卵から産まれるのはヒヨコに決まってるだろ」
人を食ったような質問に、僕はだんだんイライラしてきた。そんな僕の様子をみて、男は余裕綽々といった風に首を竦める。
馬鹿にしやがって。絶対に騙されるものか。
「ハリボテ鳥を知ってるか」
急に猫なで声で男が言う。どうやら攻め手を変えようというらしい。
「親鳥はヒナを背に乗せて飛ぶんだが、飛んでいる内に親鳥の体をヒナがつついて食っちまうのさ。けれど親鳥は飛び続けるんだ。内臓が食いつくされて、骨と皮だけになるんだが、それが丁度グライダーみたいになって、滑空し続ける。そうしてヒナを運んでいく」
それぐらいのことは僕だって知っている。この男と一緒に行く間も、何度かハリボテ鳥の影が頭上を横切ったことに気がついていたし、雲の切れ間から運悪く落下して地面にたたきつけられたハリボテ鳥のヒナを食って命を長らえたことだってある。
「それがどうしたっていうんだ」
僕が跳ね除けるように言うと、男はちょっと心外そうに眉を顰めた。
「ハリボテ鳥はなにも特別な生き物じゃあない。この辺りに棲んでいるありふれた鳥さ」
「何が言いたいんだ!」
回りくどい男の話に、遂に僕は激高した。けれど相手は全く動じた様子もない。男は僕よりも大柄、この荒野を旅している時間も僕よりずっと長いようだ。経験も知識も豊富。背負った荷袋はたくさんの道具で膨らんでいる。きっと、旅の道中で誰かから奪ったものも多くあるのだろう。力ずくでこられたら、ひとたまりもなく縊り殺されてしまうに違いない。
僕は危険を感じてじりじりと後ずさる。男は距離を詰めようと、足を乾いてひび割れた大地に擦りつけながらこちらに近付いてくる。
「いいか。お前。俺は親切で言ってるんだぜ。それに、その卵が孵っちまえば俺だってヤバイ。今、割って、食っちまえば問題ねえんだ。けどな。生まれちまったら終わりだ」
「しつこいぞ!」
「まあ、聞けよ。ほら、血が出てるじゃないか。痛くないのかよ」
痛い。痛いさ。胸の辺りをニワトリがしつこくつついて、僕の生き血を啜っている。けれど、これは前払いの料金みたいなもの。これでニワトリが元気になって、卵を産んでくれるようになりさえすれば、この耐え難い飢えから解放されるのだから。それを思えばこんな痛みはないも同然だ。
「痛くなんてないさ」
「呆れた奴だな。本当に卵を産むなんて信じてるのかよ」
「当たり前だ。こいつが卵を産むようにさえなれば、飢えから救われるんだ。ヒヨコを育てて、増やすことだってできるかもしれない。そっちこそ正気とは思えない。一羽しかいないニワトリを殺して、肉を食おうなんて、狂った考えだ」
男は嘆息してかぶりを振った。くるりと僕に背を向ける。やっと諦めてくれたのかと、安心したのも束の間、男は突然、振り返ると僕に駆け寄って、毛むくじゃらの太い腕を、ぬうっ、と伸ばしてきたのだ。
「何するんだっ!」
こんな横暴を許せるわけはない。僕はニワトリを渡すまいと、必死で抱え込む。男はニワトリから僕の腕を引き剥がそうと、むんずと掴んで引っ張った。
当のニワトリはと言えば、状況を理解しているのかいないのか、ぶよぶよとした腐葉土みたいな青黒い鶏冠を揺らしながら、首を忙しなく引っ込めたり伸ばしたりしてあちこちに頭を向けている。
「やめろっ!」
「このままだと、手遅れになるんだよっ!」
僕が男の手に噛みつくと、男は驚いたように飛びのいた。僕の歯型の形をした傷から、血がゆっくりと滲んでいる。
その瞬間、男の瞳は炎が宿ったかのように鋭く尖って揺らめいた。
「こんのっ!」
憤怒がこもったこぶしが振り下ろされ、僕は地面に頬を擦り付けた。細かい砂粒が張り付いて、焼け焦げた大地の匂いがした。
ニワトリはあっさりと腕のなかから零れ落ちて、簡単に奪われてしまう。ニワトリは男の腕に収まると、これから殺される運命を知らないかのように、とぼけた顔で僕を見つめた。
男がニワトリを頭上に掲げた。僕同様に地面に叩き付けるつもりなのだ。
やめろっ、と叫びたかったが、殴られた衝撃で呂律が回らなくなっており、視界も霞んできた。夜が煙になって僕を包んでいくようだ。
何かが割れる音がした。けれど、それはニワトリがつぶれた音ではない。パキ、パキ、という微かな音。そして、次の瞬間、悲鳴が上がった。
男が絞り出すような驚愕の声を喉の奥から漏らし、何かが引き千切られているような音がした。
目の前は朧で、何も見えない。
意識が途切れそうだ。
ピヨ、ピヨ、というヒヨコの声がした。
なんだろうか。
ニワトリが卵を産んだのか?
けれど産まれたばかりの卵から、こんなにすぐにヒヨコが孵るはずはない。
それに、なんだかたくさんいるようだ。
もしかしたら、近くにニワトリの卵があったのかもしれない。
それが孵ったのか。
よかったなあ。ニワトリ。仲間に会えて。
こっちにやって来る。幼く可愛い足音が、たくさん近付いてくる。
ふわふわのヒヨコの羽毛が僕の頬を撫でている。
くすぐったい。
ああ。温かいなあ。
熱いぐらいだ。
すごく熱い。




