第245話 三人のルール
「入居に際してお願いがありまして」
と、切り出された時には、ほら来た、と思った。なにせこの辺りの相場からしたら、部屋代が少し安い。なにか問題があるに決まっているのだ。
「なんでしょうか」
とはいえ、聞いてみないことにははじまらない。俺は向かいに座る管理人の方に体を乗り出した。
「このアパートは隣接する小さな工場に繋がってるんですよ。それでそちらの方の人件費削減に協力して頂きたいわけでして」
「えっ。工場で働く、ってことですか」
「いえいえ。違います。ただね。朝一番に一階にあるレバーを引いてもらいたいんで」
「レバー?」
「そうです」言って管理人は空中に絵を描いて、スロットマシーンにでもついていそうな、よくあるレバーの形を示した。
「それが工場の設備を起動させるんですよ」
なるほど。早朝からその設備を起動させるためだけに出勤する人が必要だったのだろう。それをこちらで請け負う代わりに、部屋代が安くなっているというわけだ。妙な話だが、大した手間ではなさそうだ。
俺は「はあ、分かりました」と曖昧に頷くと、管理人は商売人が客にするような張り付いた笑顔を浮かべた。
「このアパートは三部屋ありますでしょう」
言われて建物を思い浮かべる。大きなビルと商店に挟まれた細い隙間に建てられている縦長のアパート。四階建てで、一階はいま俺がいる管理人室。残りの二、三、四階が貸し部屋になっているということなのだろう。
「それでですね。なにも一人でレバーを操作して欲しいというわけじゃないんですよ。毎日欠かさずとなると大変ですからね。他の部屋にはもう入居者さんがいらっしゃいます。あなたを含めた三人の内、誰かがやってくれればいいんです」
それを聞いて俺は気が楽になった。なんだか責任重大にも思えていたが、俺が忘れていても、他の二人がやってくれるということなら寝坊や二度寝も許される。
「ただし、やっぱり、誰かがやらない、なんてことになったら、他の人たちが大変でしょう?」
心を見透かされたような気がして、俺は内心ひやりとしたが「そうですね」とそれらしく相槌をうつ。
「だから、この人サボってるな。って分かったら、教えてください。その時は厳しい措置を取らせて頂きます。連絡してもらえたらお礼もしますよ」
俺はこのアパートに住むことになった。部屋は三階。二階と四階の部屋に挟まれた真ん中だ。部屋代が安いだけあって天井や床が薄くて、上や下の階の音が漏れ聞こえてくる。けれど、俺の稼ぎに見合った住居は他に見つからなかったので、我慢するしかない。
レバーは一階の管理人室の外、扉の横についていた。管理人室といっても管理人がそこに住んでいるわけではない。普段は隣の商店に貸し出しているようだ。
初日、二日目と朝一番にレバーの元へと行ったが、既に引かれている後だった。他の二人の内どちらかがやったのだろう。三日目、四日目と同じことが続いて、俺はもう真面目に朝一番にレバーを引こうとは考えなくなった。どうせ他の二人がやってしまうのなら、俺がわざわざ手間をかける必要はない。
しかし、そうすると、管理人が言っていた、サボっている人に当てはまるのではないかという危惧がむくむくと芽生えてきた。いやいや、俺はレバーを引こうとしている。先に引かれているのだから、どうしようもないではないか。だが、もし仮に、他の二人が俺を密告しようと思えばできてしまうのだ。そう思うと、なんだか息苦しさを感じてしまう。
他の二人としばしば顔を合わせたが、俺は恐縮しきりで平身低頭あいさつするぐらいしかできなかった。精々機嫌を損ねないようにしておこう。いつ自分が糾弾されるかもわからない。何時ぐらいにレバーを動かしているのか聞いてみたいものだが、そんなことを話題にはできない。今の状況は危ういバランスで保たれているのだから。
レバーを動かしているのが他の二人の内、一人だけなんてことはありえない。何故なら、それならば、その一人は他の二人がサボっていることが分かるからだ。わざわざ自分一人が苦労を背負い込んで、他の二人のサボりを知らせないなんてことはないだろう。つまり、二人ともがレバーを動かして、自分が動かしていない時には、俺を含めた残りの二人がやっているのだろう、と考えているに違いない。
俺がレバーのことを聞いたりするのは、自白同然の行為であり、たちどころにつるし上げに遭う可能性があるのだ。
戦々恐々としながら息を潜めるようにして生活した。目立つことをしなければ、バレはしないだろう。仕事も忙しく、レバーのことばかりを考えてもいられない。上から水が漏れて来たり、下からたまに大きな音が響いてきても、文句を言いに行く気にはならない。逆に文句を言いにこられても困るので、丁寧な生活を心がけるようになった。
早朝。まだ日も昇らない内に、アパートの隣の商店に従業員がやって来て、借りている管理人室へと入っていった。事務作業などの雑務に使わせてもらっているのだ。入って早々、部屋の奥にあるボタンを押すと、外にあるレバーがことりと小さな音を立てて引かれる。けれど、従業員はそんなことに気づきもしない。ただ、管理人から朝来たときには忘れずにボタンを押すことを条件に借りているので、その指示に従っているだけだ。
従業員は朝の開店準備に勤しみながら、ふと、最近はアパートの住人が大人しいということに思い至った。お世辞にもあまり住み心地のいい場所ではないから、昔は住人の間でトラブルが絶えなかった。管理人もひどく悩んでいた覚えがある。けれど、今はお互い妙に遠慮し合っていて、喧嘩一つないのだ。そういえば、こんな風に住人が穏やかになったのは、このボタンができてからのような気がする。ずっと昔はボタンなどなかった。これは、なんのボタンなんだろう。
開店の時間が迫ってきた。まあ、なんにせよ良いことには違いない。従業員は淡い疑問を振り払って、今日の仕事に励むべく、机に向かって忙しく作業をこなし続けた。




