第234話 ヤカンとの付き合い方
「ピィー、ピィー」
ヤカンが小さく鳴きはじめた。もう少しでお湯が沸く。ちゃんと使えるのか心配だったが、どうやら大丈夫らしい。俺は昨日この古いマンションの一室に引っ越してきたばかり。朝の一杯のコーヒーを飲むのは引っ越し前から続けていた日課。スプーン半分程のコーヒー粉にコップ一杯のお湯を注ぐ。そんな薄いコーヒーを飲むのが俺の朝のはじまりなのだ。しかし俺はうっかりしたことにヤカンを持ってきていなかった。どうしたものか、と思っていたら、前の住人が忘れていったのだろう、棚の奥にヤカンがあるのを発見した。見たところ年代物といった印象を受けるが、たいして汚れてはいない。洗ってみると、すぐにピカピカになって、十分使えそうな代物だった。
いよいよヤカンの笛が高く鳴り響き、そろそろ火を止めようか、と腰を浮かせた時、
「やあ、おはよう」
と、どこからか声が聞こえた。俺はびっくりしたが、とりあえずヤカンの火を止める。それから辺りに耳を澄ませた。妙にはっきりした声だったが、今はしーんと消えてしまっている。
窓や、玄関の外を確認するが、早朝の道を歩く人の姿はない。壁に耳を当ててみる。古いマンションではあるが、意外と壁は厚くて隣室の音は全く聞こえない。
俺は、気のせいか、と思ってそのままいつものようにコーヒーを入れて飲み干すと、すぐ仕事に出かけた。
しかし、次の日。またもや声がした。
「今日はぽかぽかいい天気だ。それに、お花が開きはじめたね」
俺はヤカンの火を止めて、耳をそばだたせた。またもや声はかき消えている。そんな、おかしなことが何日が続いた。
不可思議な状況に苛立った俺は、ある時、ヤカンを止めるのも忘れて、声がした瞬間にガラリと窓や玄関を開けて外に身を乗り出した。相変わらず平穏な朝の風景が広がっているばかり。部屋に爽やかな風が吹き込んでくる。
「今日はとっても元気だね。おはよう。おはよう」
「誰だ!」
それは確かに部屋の中から聞こえてきている。
「僕は僕。君は誰」
「俺? 俺はな…」
言いながら乱暴にヤカンの火を止めると、声がピタリと止んでしまった。俺はふと思いついてヤカンを再び火にかけてみる。ぐつぐつと沸騰したお湯が蒸気を噴き出し、ヤカンが鳴る。するとまた声が聞こえた。
「やあやあ。またどうも」
火を止めると声も止む。俺はここ数日の謎が一気に解明されたような気分になって、どうにも晴れやかな心持ちになった。声の主はさっぱりとした奴のように思えたので、正体不明の不気味さはあったが、嫌悪感はない。
しかし、このヤカンをどうしたものか。喋るヤカンなど聞いたことがない。あるいはヤカンの注ぎ口に取り付けられている笛によって、喋っているように聞こえるだけで、実のところ俺の幻聴ということもあり得る。
俺はなんだか興味を惹かれてきて、新しいヤカンを買ってくると、それを使ってお湯を沸かした。しかし、声は聞こえてこない。やっぱりあのヤカンが原因のようであった。そして、なんだか会話できそうな雰囲気だったことを思い出し、再び例のヤカンを火にかけた。
「おやおや、こんな時間にコーヒーですか」
よく考えずとも異常な状況以外の何物でもないのだが、軽妙な語り口に俺は楽しくなってきた。しばらく会話してみると、中々気のいい奴だというのも分かった。しかし、そうしていると、
「うるさいぞ!」
と、隣室から壁を叩く音と共にお叱りを受けてしまった。流石にヤカンの音となると隣室までやかましく響いてしまっていたらしい。俺はすぐに火を止めて、ヤカンとの会話を打ち切った。
それから、朝の一杯のコーヒータイムは、ヤカンとのささやかな会話の時間にもなった。鳴らし過ぎないように、一言二言言葉を交わして、火を止める。それだけのことなのだが、俺はそれが妙に楽しかった。
ヤカンは口が上手く、朝の元気をもらうことができた。それが良い効果になったのか、仕事は好調、出世を果たすこともできた。すると俺はなんだかヤカンに恩義を感じて、お返しをしようと考えた。
俺はヤカンをピクニックに連れ出して、持参したガスコンロにかけると、邪魔する者など誰もいない大自然のなかで、思いっきり鳴らしてやった。
「おおー。なんとも、気持ちのいいところですねえ」
ヤカンは喜び勇んで喋り出して、とめどなく言葉が紡がれる。しかし、初めの内は良かったが、ヤカンの長広舌は止まることを知らず、どんどん胡乱な話題に流れていくかと思うや、辺りはもくもくとヤカンから噴き出る湯気に覆われて、煙る景色の中で魑魅魍魎が跋扈しているが如くの罵詈雑言に発展していた。
俺は必死で湯気と格闘して、それを振り払おうと奮闘していたが、そのうちヤカンの中の水が残らず蒸気になってしまったようで、靄が晴れると同時にヤカンの底が焦げ付く悲痛な音だけが辺りに響いた。
この出来事以降、再び俺は朝のほんのわずかな時間だけヤカンと会話する生活に戻った。何事にも適度な距離感というものがある。それを破ってはいけなかった。ヤカンが鳴れば止める。この確かなルールを守ってさえいれば、こいつともうまく付き合えるというものだ。




