第229話 起きろ!
友人と二人、山で釣りに興じた日の夜。川の畔に張ったテントで二人並んで寝ていると、風の感触がして目が覚めた。テントの入口はきちんと閉めていたはずだ。だから、おかしいな、と思い、頭を少しだけ傾けてそちらに目を向けた。するとテントの入口が開け放たれている。俺は友人がトイレか何かで起きて、戻ってきた時に寝ぼけて閉め忘れたのだろうと考えた。
「おい、起きろよ」
文句のひとつでも言ってやろうと友人の体を揺すったが、彼は一向に目を覚ます気配はない。まだ深夜だから俺も眠く、起きるまでくり返す気もなかった。だからサッと立ち上がって入口を閉めると、寝袋の中へ戻ってすぐに眠った。
次の日、友人にその話をすると、友人は「君を起こそうとしたのは僕の方だぜ」などと言ってきた。よくよく話を聞くと、友人も俺と全く同じ体験をして俺を起こそうとしたが、起きなかったので自分でテントの入口を閉めて眠ったというのだ。
お互いの話が入れ違っているのはどうにも不思議ではあるが、彼は俺が責任逃れで嘘をついているのだと決めつけているようで、こちらとしては断固、事実は真逆だと主張した。しかし話題は本命の釣りのことに逸れていって、この話についてはすぐに打ち切りになった。朝食を軽く済ませると、それぞれ釣り竿を持って、絶好の釣り場を探しに川へと向かう。
ここは釣り人にとっては秘境と呼ばれる山で、二日もかけてやってきた。この川には主と呼ばれる巨大な魚が棲んでいるらしく。大の釣り好きの俺と友人は、どちらがその主を釣れるかを賭けて勝負している最中なのだ。今日は二日目。初日は二人とも釣果ゼロで散々な結果だった。主が釣れるまで、もしくはそれに相当する大物が釣れるまでは、数日はテントで泊まり込んで粘る腹積もりだった。
二日目も釣果ゼロ。二人して肩を落として、特に語ることもなく夜をやり過ごすことにした。そして深夜、俺はブーンという音で目が覚めた。不快な音にバッと身を起こすと、テントの中に一匹のアブが入ってきていた。そばにあった軍手を拾って、追い払おうと振り回すが、ひらりひらりと躱されてしまう。とにかく外に追い出そうとして、ふと気がついた。テントの入口はぴったりと閉まっている。こんな図体のでかいアブがどこから入ってきたのだろうか。
そんなことを思っていると、アブは寝息を立てる友人の顔の止まってしまった。俺は急いで入口を開けると、軍手て友人の頬をアブごと打った。そんな一撃もあっさりと躱されて、アブは不規則な飛び方でテントの中にしばらくいたが、ややあって外に出ていってくれた。
俺は深夜の思わぬ闘いにひや汗をかきながら、入口を閉めると、友人を揺さぶった。
「おい、大丈夫か、起きろ。アブに刺されてるぞ」
しかし彼はぐっすりと眠っていて、一向に起きる気配はない。なんとも図太いと言わざるを得ないが、俺は明日教えてやればいいかと考えて、自分の寝袋に潜り込んだ。
三日目の朝。起きてきた友人が開口一番、
「お前、顔、大丈夫か」
と、言ってきた。何のことかと思っていると、俺が深夜、アブに刺されたのだと言う。俺が、そんなはずはない、刺されたのはお前の方だ、と言い返すと、相手も、そんなはずない、と返してくる。
友人の顔には刺された痕がしっかりと残っているが、何の痛みもないらしく、鏡を持ってきていないので、確かめさせることもできない。川の水を覗いてみるが、川底の岩が多く、常にあぶくのような飛沫に覆われている場所なので、どうにもうまく顔が映らなかった。彼は彼で俺の顔に刺された痕があると言うが、触っても痛みなどなく、腫れた感触もないので、相手と同様にそれを認めることはできなかった。
やや険悪な雰囲気のまま、俺たちはまた釣りに出かけて、成果を得られないまま夜がやってきた。
三日目の夜。ヒュー、という空気が通り抜けるような小さな音で目を覚ました。俺は、またか、と思って目を覚まして、入口の方へと視線をやった。やっぱり、入口が開いたままになっている。友人は俺を嘘つき扱いするがとんでもない奴だ。あいつこそ嘘つきで、俺を悪者にして楽しんでいるのだ。思えば昔からあいつにはそういうところがあった。
入口から見える夜の闇を眺めながら、頭の中で不平不満を垂れ流していると、白い棒のようなものが、テントの中にスーっと入ってきた。なんだろう、と見ていると、近づいてきたそれが、人間の手であることに気がついた。長い、長い腕が入ってきて、友人の方へと伸びていく。
俺は驚愕しながらも、
「おい、なんかヤバイ。おい、起きろ! 起きろ!」
と、友人の体をもはや叩くようにして、懸命に起こそうとした。友人は安らかに寝息を立てており、腹が立つぐらいにまるで起きようとしない。そんな風に大騒ぎしていると、いつの間にか白い手は消えてなくなっていた。
テントの入口まで行って、外をぐるっと見回してみるが何もない。何かの見間違いか、幻覚だったのだろうか。いや、そんなはずはない。頬をつねってみても、確かに痛い。これは夢ではない。
俺は入口を閉じて寝袋に戻った。その後は一睡もできなかったが、何も起きることはなかった。
四日目の朝。俺は友人に夜あったことを話そうと口を開いた。俺が語り出す前から友人は真っ青になっており、俺が喋るのを遮って「ふざけるなよ」と怒りをあらわにした。
「僕が怪談が苦手なのを知ってて、あんな悪戯したんだろ! あんなに起こして起きないやつがいるはずがない! 狸寝入りもいいところだ。嫌な予感はしてたんだよ。お前がここに誘ってきた時にさ。さっき携帯で調べてみたら自殺の名所らしいじゃないか。分かってて連れてきたんだろ!」
そんなことは初耳だったが、俺の弁解も聞かず、友人はここぞとばかりに好き放題に言ってくる。流石に俺も腹が立ってしまって、もう釣りは断念して帰ろうということになった。
荷物を片付ける間も、一言も口をきかない。二人で黙々と帰り支度をして、山道を下っていく。麓までは二日がかりの道行きで、途中でまたテントで一泊しなくてはならない。わざわざ遠くの秘境まで足を運んだのに、こんな結果になって残念でしかたがないが、しょうがない。
夜、帰路の半分を越えたあたりの場所で、テントを張って夜を明かす。俺は寝袋の中で朝のことを思い出して、まだ腹のなかがムカムカしていた。こんな奴を誘わずに一人で来ていれば、今頃のんびり釣りを楽しんで、主も釣れていたかもしれない。きっとイライラした気持ちが竿に伝わって、魚が一匹も釣れなかったのだ。第一あんな言い草はないだろう。悪いのは一方的に相手なのに、こちらが全ての罪を被せられてしまった気分だ。
知らず知らず「クソッ」と声が漏れてしまう。神経が高ぶって、全く眠れない。外の空気でも吸おうかと思って起き上がり、隣で眠る友人の顔が視界に入ると、どうしようもない怒りが湧き上がってきた。
衝動的に俺は軍手をはめて、釣り糸を手に持っていた。そうして、何かに突き動かされるようにして、友人の首を絞めていた。細い糸が張り、首元の肉に食い込んでいく。
しばらくして、赤黒く肌が変色するのを見て、俺は正気に戻った。すぐに力を抜こうとしたが、なぜか糸はピンと張られたまま締まり続けている。いつの間にか俺の手の上には、前日に見た真っ白な手が重ねられている。
「起きろ! 起きろ!」
友人は起きない。
「起きてくれ! 起きろ!」
俺は叫び続けた。懇願するように涙を流して、身をよじったが、どうやっても手は止まってくれなかった。
数日後、山中で遺体が発見された。玄人に人気の釣りスポットへの道行きの途中。道の脇に張られたテントの近くで、樹に釣り糸で首を吊っているのを、登山客が見つけたのだ。テントの中には一人分の荷物がまとめられており、釣り道具が多くあった。調べによると入山時には二人だったとの目撃情報もあるが、もう一人の行方は分かっていない。そして、釣りに来ていたらしいことは確かだが、何故首を吊るに至ったのかの詳細も不明だった。




