第22話 空を歩くひと
サーカス団を引退したピエロが壮大な夢を叶えようとしていた。綱渡りで世界一周。その為に全財産をつぎ込んで、あらゆる手段を講じた。
大がかりな工事によって世界中に数多の柱が建てられ、そこに綱が渡された。国境を越える手筈も整えられた。自身の芸があらゆる国、人種、言葉を越えて平和を届けるという信念があったピエロはより多くの国を跨ぐようにルートを考えた。
一番の問題は食事と排泄であったがそれも解決した。食事は綱の一部を可食性のものにすることで、通り過ぎた綱を解いて食べれるようにした。排泄物はそれを分解する装置を衣装に取り付けることにした。そのかわり宇宙服のような大掛かりな衣装になり、かなりの重量になってしまったが、それも訓練によって克服し、ピエロはその衣装を着たままでも自在に動き回れるようになった。
睡眠は初めから問題ではなかった。元々ピエロは綱の上でも落ちることなく眠ることができたのだ。
そうして全ての準備が整い、ピエロはようやく夢の第一歩を踏み出すことになった。人々はあまりの無謀さに呆れながらも好奇の目を輝かせていた。取材陣が見守る中、ピエロは綱の上を一歩また一歩と渡っていった。
連日ピエロがどこまで進んだか、健康状態はどうかといったニュースが取り上げられた。けれどしばらくすると人々は別のニュースに夢中になり、ピエロのことは徐々に忘れ去られていった。しかしピエロは決して歩みを止めることなく進み続けていた。
ピエロの足元には大都会が広がっていた。激しいビル風に煽られて、ピエロは何度も落下しそうになった。高いビルの人々は窓の外のピエロには気づかず、忙しく働き続けていた。
街を抜けると壮大な樹海が広がっていた。切り倒される樹々の巻き起こす土煙に包まれて、ピエロの姿を見る者は誰もいなかった。
森を抜けると次は大海原の上へと綱は続いていた。大きな船が通り掛かり、次々と魚を釣り上げた。甲板には巨大な魚がいくつも吊り下げられたが、その上を通るピエロの姿を見たのは息絶えた魚の瞳だけだった。
海を越えるとそこでは紛争が起きていた。銃弾の飛び交う中をピエロは懸命に進んだ。争い合う人々の上でピエロはおどけて見せたが、それに目を向ける者は誰もいなかった。
ピエロは歩み続けた。
雨が降ろうと、風が吹こうと、陽が照り付けようと、極寒の夜に苛まれようと、決して止まることはなかった。
そして、ピエロは遂に世界一周を達成しようとしていた。
徐々に近づいてくるゴール地点を見てピエロの歩みはのろのろと緩慢になっていった。感動の為ではない、もっと別の感情がピエロの心には渦巻いていた。
ゴール地点で待つ者は誰もいない。そこには何もなくなっていた。戦争によって跡形もなくなっていたのだ。大地は荒れて、もはや地上に降りることもできなかった。
渡るべき綱もなくなり、一本の柱の上でピエロは佇んだ。そして、意を決すると空へと足を踏み出したのだった。
ある日、子供が空を見上げて言った。
「お母さん見て。お空の上を誰か歩いているよ」
「そう。天使さまかもしれないね」
母親は家事に熱中しており、顔も上げずに返事をした。
空を歩くひとはぐんぐんと空高くへと昇っていった。子供はそれが見えなくなるまで、ずっと目で追い続けた。その瞳は驚きと感動に満ちて、きらきらと輝いていたのだった。