第211話 赤いワンピース
「わっ」
滑って転んでしまった。ブティックの床はつるつるに磨きあげられていて、慣れないヒールなんて履いていたものだから顔面から床にたたきつけられてしまった。ジーンと痛みが鼻から頭へ抜けていく。涙がジワリと溢れてくる。
大量に服がかけられたパイプハンガーと壁の間にある細い通路だったので、幸い誰にも見られなかったようだ。恥ずかしかった、と思いながら立ちあがって、どくどくとのたうちまわる心臓を押さえる。そうしてふと前を見た瞬間、パイプハンガー越しに別の客の顔が覗いて悲鳴をあげそうになってしまった。一瞬目が合ったが、相手はスッと視線を外してどこかへ去っていく。流石都会の人だ。こんなことには慣れっこなんだろう。
顔が赤くなってるのが分かる。とにかく転んだ場所から足早に離れて店の奥へと移動する。変に思われなかっただろうか。本当に恥ずかしい。気をつけないといけない。
私は気を取りなおして洋服を選びはじめた。遠くから都会のブティックにきた甲斐があった。すごく綺麗な服がたくさんある。どれも素晴らしくて目移りしてしまうけれど、せっかくだから田舎では売ってないような思いっきり派手な服がいい。でもやっぱり私に似合うかは心配だ。一度は試着してから決めたい。
特に気に入った服をひとつ手に取って、思い切って試着室に向かう。真っ赤なワンピース。フリルがいっぱいついていて、スカートの一部に薄く透かし模様が入っている。今まで着たことのないオシャレでかわいい洋服だ。
お店自体もおおきいけれど試着室もおおきい。手を広げても大丈夫なぐらいだ。靴を脱いでなかに入り、隅にあるカゴに鞄を置く。手に持っているワンピースを壁に取りつけられたハンガーにかけると、これを着て私は生まれ変わるんだ、という思いが湧きだしてウキウキしてきた。地元で買ったちょっと古臭いデザインの洋服を脱いで、鞄の上に畳んで置く。
ワンピースに袖を通す。鏡を覗いて我ながらびっくりする。本物の都会の人みたいだ。
「きゃっ」
急にプツリと電気が消えた。なにも見えない。真っ暗だ。
「……すみません」
助けを求めて声をだしてみるが返事はない。あたりはシーンと静まり返り、突然深海の底に投げこまれてしまったかのようだった。
取りあえず試着室から出ようと思ってカゴのあった場所へと手を伸ばす。
「あれ?」
ない。私の荷物がない。荷物置きのカゴがない。カゴを探して手をずうっと伸ばしていくと、大きくつんのめってしまう。なんと荷物やカゴだけでなく、壁もない。
びっくりしてしゃがみ込んでしまった私は今度は床を手探りしてみた。試着室の床はモコモコしたカーペットが敷かれていたように思っていたけれど、いま自分が立ってい場所はつるつるとしたフローリングのような感触だ。
四つん這いになって床にそって手を伸ばしてみる。壁は確かにない。やっぱりカゴもない。試着室に入るときにあったはずの段差もない。脱いだはずのヒールのくつもない。あちこちに手を伸ばしてみるが、なんにも触れることはない。
「すみませーん!」
大声で叫んでみる。なんだかすごく大きながらんどうの空間にいるみたいに響いている。風はないけれど冷たい空気がどこからか流れてきているような気がした。
立ちあがったけれど自分が立っているのも疑わしくなるほどに真っ暗だ。どっちが上で下なのかも分からなくなりそう。裸足の足を床に滑らせるようにして一歩踏みだす。もう一歩。慎重に前へ前へと進んでみるが、奇妙なことにまっ平らな床だけがどこまでも伸びているようだった。
「誰かいませんか」
返事はない。相変わらず私の声だけが響いている。ワンピースから突きでたむき出しの腕や足がなんだか凍えてきて、私は肩を抱くようにしてギュッと縮こまる。
光も音もない世界。けれどひとつだけ手掛かりがあった。私はそれに気がつかないふりをしていたけれど、遠くになにかがあるのが分かっていた。
すごく嫌な匂いが漂ってくる。私はそれを避けようと、遠ざかろうとしていた。匂いは気にならないぐらいに薄まってきたが、そうすると急に心配になってきた。もしこの匂いが届かないぐらいに離れてしまったら、私は真の孤独のなかに置き去りにされてしまうのではないか。
近づいていいのか、離れてもいいのか。私は立ち止まって、どうしようかと考え続けた。そうして虚無に向かって進むよりはずっとずっとましだと結論付けた。
匂いのする方へと空中を漕ぐみたいにして進む。せっかく試着している素敵なワンピースも闇のなかではただの布だ。ひらひら裾がゆれることでその存在を主張してはいるけれど、着慣れた服じゃない不安をかき立てられるだけだった。
はじめは誰かに呼びかけながら進んでいたが、もう声を出すのも辛い。ただ自分の声が反響するだけなのを突きつけられてしまうからだ。ペタペタと裸の足が床を踏みしめる音だけが耳の奥に響く。嫌な匂いはどんどん濃くなっていく。酸っぱいような、なにかが腐っているような、口のなかを切ってしまった時のような、そんな匂いだ。
ゆっくり、ゆっくりと闇をすくうように手を動かして前にでる。空気すらも暗闇のなかに隠れてしまったかのようでなんだか息苦しい。私自身の体さえおぼろに思えて、確かにいまここにあると断言できるのは孤独と嫌な臭いだけだった。
匂いが近い。もう目の前だ。けれどこの匂いに向かって話しかけていいのだろうか。こんな嫌な匂いを発するものはいったいなんなんだろうか。私はまた悩んでしまう。けれどそうしていたってしょうがないのは分かっていた。意を決して声を出してみるしかない。
「……あの」
あっ。人だ。人が倒れている。頭から血を流している。暗闇のなかなのにそれがはっきりと分かった。そして私は自分の声とは思えないようなおぞましい叫び声をあげた。
ものすごい叫び声がしてブティックなかの客が一斉に視線を向けた。店員が慌てて駆けてつけると、今度は店員の絹を裂くような声が響いた。そこには死体があった。赤いワンピースを着た女の子。壁際にあるパイプハンガーと壁の間。大量に並ぶ服のカーテンで覆い隠されていた細い通路で、転んで頭を強く打ってしまったようだった。




