第183話 恋するマンドラゴラ
火事と喧嘩は江戸の華とは言うけれど、私はどっちも大嫌いだ。だって喧嘩でお花が踏まれてしまうし、火事で焼かれてしまうのだから。
吉原の外れにある遊郭の裏。小さなお花畑。そこで私は咲いている。
ここは表の煌びやかさとは程遠くって、その輝きで象られた濃くて暗い闇が凝っている。だけれど、こんな場所でも小さな灯に照らされることがある。ほら、あの人がやってきた。
私は、さあ綺麗でしょ、と言わんばかりに紅い花を揺らめかせて、あの人の気を惹こうと奮闘する。でもあの人は見向きもしない。お花畑の縁にある大きな石に腰掛けて、ぼんやりと空ばかり眺めている。
嫌な奴がやって来た。犬好きの将軍様が出したお触れのおかげで生き残っている畜生だ。廓に乱入して汚す、食べ物を盗む、人を噛むという、ろくでなし。尻尾をふりふり、あの人のそばに駆け寄って、鼻をふんふん鳴らしながら、頭を撫でろとせがんでいる。
あの人はそんな犬畜生の頭を撫でて、とっても優しい笑顔を見せた。私に向けられるべき笑顔。犬畜生が憎らしくってしょうがない。
ああ、あの人が去っていく。今日もお話できなかった。お花畑に埋まった私を、あの人が引き抜いてくれさえすれば、心の底からの愛を叫ぶのに。どうして気づいてくれないの?
男は吉原を出て、長屋へと帰っていく。きりりと引き締まった細面に、墨で引いたような切れ長の目が涼やかだ。吉原でも評判の色男。虜にした女は数知れない。だが、そんな男にもどうにもならない女がいた。今日もその女の元を訪れたのだが、邪険な態度であしらわれて、嫌悪を露わにされてしまった。その女のことを想うとむしゃくしゃして頭の中が真っ黒になる。どうして自分の思い通りにならないのだと、腹が立ってしょうがなかった。
長屋につくと、丁度同じく帰宅した隣人と鉢合わせた。隣人は町医者の手伝いをしており、摩訶不思議な薬草をいっぱいに詰め込んだ籠を抱えていた。
ふらふらと足元が危なっかしくて見ていられない。男は隣人を手伝って、籠を長屋に運び入れてやった。
「ありがとよ」
「まあ、このぐらい、いいってことよ。その草はなんなんだい?」
何気ない質問であったが、隣人は頭を掻いて、ちょいちょいと男を手招きした。
「……惚れ薬だよ」
耳打ちされた内容に、男は雷で打たれたような気がした。
「ほう。それはそれは。これがねえ」
ひとつ手に取って、まじまじと眺める。
男は植物に詳しくないが、ギザギザした葉っぱといい、紫色と白色が混じったような色といい、なんとなく異様な雰囲気をまとっていて、惚れ薬だという話に説得力を感じる。
「どうだい。ひとつ譲ってくれねえか」
男がおもむろに切り出すと、隣人は照れたように口元をほころばせた。
「実は偽物なんだ。助平な殿様に渡すのよ。煎じて飲めばちょっと体があったまるぐらいなもんでね。こんなもんに大枚叩くってんだから、馬鹿なもんだぜ」
「なんでえ。期待させやがって。偽物かよ」
男は悪態をついて手に取った薬草を籠のなかに叩きつけたが、すぐに身を翻して、
「本物はねえのかい?」
と、興味津々といった風に顔を寄せた。
「本物? 海を渡った所、南蛮とかにはあるって先生が言ってたような気がするなあ」
「へえ。どんなもんなんだい」
「ちょっと待ってくれ。今、思い出すからよ。……そう。変な話だったぜ。惚れ薬の材料になる植物があるんだが、そいつが言葉を喋るのよ」
「喋る!?」
これには男も驚いた様子で、話に引き込まれるようにして身を乗り出した。
「そうそう。人参みたいな見た目でよ。根っこが人間みたいな形をしてるんだ。そいつを引き抜くとよ、すげえ叫び声を上げるんだと。それをまともに聞いちまったら、命はねえって話だ。処刑場で処刑された人の血を啜って花を咲かせるらしくってよ。確か、こんな感じの……」
木の板の床に、植物の汁で濡らした指で隣人は絵を描き始めた。
恐ろしい話に震えあがっていた男だったが、さらさらと描かれる植物の姿を見て、急に目を血走らせた。
見覚えがある花だった。確かにどこかで見たことがある。処刑場、という言葉が男の脳を刺激した。吉原の外れにある花畑。そこが吉原の禁を破ったり、使い物にならなくなった遊女を処分する場所だと思い出した。その花畑に目の前の絵にそっくりな花が咲いていたはずだ。
しかし抜いたら叫び、叫びを聞くと死ぬのなら、どうやって手に入れればいいのか。そんな疑問を素直にぶつけると、隣人は、
「犬に引っ張らせて抜かせるらしいぜ。まあ、犬っころはそれで死んじまうから、今の世だと御法度かもしれねえなあ。はっはっは」
と、豪快に笑いながら教えてくれた。
男は隣人の元をさっさとおいとまして、月が照らす夜道を駆けた。吉原の門が閉まるにはまだ時間の余裕がある。十分間に合うはずだ。それに、あのやたらと懐いてくる野良犬が使えるにちがいない。そう考えて、男は走り続けた。
「……はあ」
月明かりの差す窓辺に腰掛けて、道往く男たちを眺めると、自然と溜息が出てきてしまう。今日もまたあの男がやってきて、しつこく言い寄ってきた。すげなく追い返してやったけれど、いい加減うんざりする。
あの男に泣かされる破目になった女たちの噂は沢山聞いていたし、元々嫌いだったけれど、あの子が死んでしまってからは、より許せない気持ちが膨れ上がっている。どうにかあの子の無念を晴らしてやりたいけれど、吉原育ちの悲しい思考が邪魔をして、そこまで踏み出せない。けれど、どうせ簪一本ぐらいであの男の命をとるなんて、この細腕ではできっこないだろう。
窓の下にある花畑を見ると、あの子のことを思い出す。私の妹。あんな男の与太話を信じて、夢を見てしまった子。あの男は吉原の女に夢を抱かせることがどんなに罪なことなのか分かっていない。女を売り買いするような監獄で、所帯を持てるなんて勘違いして、あの子は勝手に吉原を抜け出した。連れ戻されたあの子は、強情にあの男以外の客をとるのを拒んだから、ついにはあの花畑で命を散らす結果になってしまった。
花畑に咲いた小さな紅い花が目に入る。あの子の可憐な笑顔を彷彿とさせる儚げな花だ。
「やあやあ太夫。今日も来たぞ」
物思いは客の声で突然中断させられる。
「あら、お殿様」
私にのぼせ上っている常連客だ。すぐに憂い顔の上に微笑みを張り付けて、客の体にしなだれかかる。
お酌をすると、客はいつもの薬を取り出して、漢方薬だと言って、それを私に飲むように勧めてくる。私は平気な態度でその粉末をお酒で飲み干す。客はどうやらこれを惚れ薬だと思っているらしいが、全く効き目はありゃしない。けれど、私は効いたふりをしてやる。ささやかな嘘で、私も客も納得して楽しめるのだから、誰も文句は言わないだろう。
褥を共にした後、眠る客をよそに私はまた窓辺にいた。花畑に咲く一輪の花を眺めながら、あの子の思い出に浸る。そんな時、またあの男がやってきた。花畑にずかずかと踏み込み、紅い花を覗き込んだ。かと思うと、あたりをあちこち探しまわって、路地裏にいる野良犬の方へと走っていった。厄介者同士、類は友を呼ぶということか、野良犬はあの男には懐いているようだ。
男が犬を連れて花畑に戻ってくる。影に沈んだ花々が踏み荒らされる様が、儚く散った女たちと重なって、どうしようもない衝動が湧き上がった。
あの花畑はあんな男が踏み入っていい場所じゃない。
頭に血が上った私の目に、客が枕元に置いている打刀と脇差が映った。そうだ、これなら、あの男を殺せる。私は飛びつくようにして脇差を手に取って、鞘を握ってすらりと抜き放つ。月明かりをを浴びた刀身がおどろおどろしく輝く。
だが、私は焦りすぎたらしい。客が目を覚まし、刀を構える私に気が付き、目を見開いた。すぐさま打刀を手にすると、弁解する間もなく一刀両断、私の首を胴から切り離した。
私の首は窓の外へと飛んでいき、あの紅い花のそばに転がっていく。胴は窓辺からぶらりと垂れ下がって、花畑に血をまき散らした。
男は遊んでもらえると勘違いしてはしゃいでいる犬を、やっとのことで捕まえて、適当に拾ってきた紐をその首に結び付けた。犬はこれから何が起こるかも知らずに、男に抱えられ、無邪気に男の顔をべろべろと舐めまわしている。
月が雲の中に隠れてしまって、花畑はすっかり闇に呑まれている。けれど、あの紅い花だけは燐光を放つように輝いて、こっちにおいでと言うように、その存在を強く主張していた。
男は犬を連れて、花のそばに行くと、犬に結んだ紐のもう一方を慎重にその花に結び付ける。失敗したらお陀仏だと思うと、手はかじかんだように震えたが、これで惚れ薬を手に入れて、あの女を言いなりにできると考えると、頭は高揚感で満たされていた。
ようやく結び終わると、男は動こうとする犬を両手を広げて制しながら、じりじりと後ずさった。犬は行儀よく指示に従っていたが、ふと、気になるものを見つけたように、ちょろちょろと動いて、花のそばにある何かを咥えて男の前に引きずり出した。
犬の口に引っ張られた髪の毛の束。その先には地獄を覗き込んでいるような凄まじい表情をした女の生首がくっついており、ゴロンと転がって男の足元へと躍り出た。
男は驚愕し、慌てふためいて、とにかくその頭にぽっかり空いた真っ暗な瞳から逃れようとして走り出した。犬は何が何だか分からないというようにちょこんと座って男の様子を訝し気に見つめている。
花を一輪、もう一輪と踏みつぶして、男は走る。土を巻き上げ、息を切らして、あと一歩で花畑から脱出できるというその瞬間。何かに足を取られて、転んでしまった。水溜まりかと思ったが、それは真っ赤な血の池であった。更に上からぼたぼたと血が滴って、男の全身を染め上げた。
腰が抜けて起き上がれない男は、己の元に駆け寄ろうとする犬の姿を見た。転んでしまった男を心配するように舌を垂らし、首に結ばれた紐を必死に引っ張っている。
「やめろ! とまれ! まて!」
男は懇願した。だがその声は犬を余計に興奮させるだけであった。ずるずると土の中から人のような形をした植物が引き抜かれる。それが頭を出した時、男は悍ましい叫び声を聞いた。
この世のものではない叫び。
どう、と花畑に四肢を投げ出し、しばらく身もだえした男は、そのままぽっくり死んでしまった。




