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第175話 ゆりかごから墓場まで

 その男には使命があった。この世に生まれ落ちた瞬間、もしくはそれ以前から、定められた運命によって導かれていた。

 自然豊かな地で育った男は快活で明るい性格であった。両親の愛に包まれ、いつも多くの学友たちに囲まれていた。

 男がまだ幼かった頃、その使命を知った者に誘拐されたことがあった。

 警察内では、使命を帯びた子供が攫われたということは大きな話題になり、威信を誇示するかのように、大掛かりな救出作戦が展開された。

 その結果、子供だった男は無事に助け出されたのだった。

 それ以来、男は警官にあこがれるようになった。

 悪を憎み、強い正義感で心は満ち溢れていた。

 学生時代の恋愛と失恋。両親との死別。様々な苦難を乗り越えて、男は立派に成長した。

 そして、念願が叶い、警官の職を得ると、魂に刻み込まれた使命を滾らせるようにして、仕事に励んだ。

 男の活躍により、多くの犯罪者が捕らえられ、裁かれた。しかし、いつもうまくいく訳ではなかった。

 ある時、一発の凶弾に貫かれ、男は重傷を負ってしまったのだ。

 病院のベッドに縛り付けられるようにして、男にとっては無為と思える長い時間を過ごさねばならなかった。何度も妻が見舞いに訪れ、励ましたものの、男の心を覆う暗い影を払う助けにはならなかった。

 治療は終わったが、男は怪我の後遺症で車椅子での生活を余儀なくされてしまった。職務を続けることは不可能と判断され、男は警察を辞する決意を固めた。

 男は深く消沈していた。そんな心は闇に引き寄せられていき、男は妻を捨て、悪の道へと落ちて行ってしまった。

 警察だった頃の裏の人脈を使い、男は、はみ出し者たちの便利屋として闇の中で生きた。

 そんな状態であっても、使命は常について回り、決して手放すことは許されなかった。

 長い時が流れた。

 男がすっかり裏社会の住人に成り果ててしまった頃、情報屋からこんな情報がもたらされた。

 かつての男の妻の消息。女は子供を産んだ。男と別れた時に身ごもっていたのだ。その子供と共に、女は湖畔のそばに建つ小さな家で生活している。その事実を男が敵対している組織がかぎつけた。組織は男を疎ましがっており、その子供を利用して、口を塞ごうと画策している。

 男はすぐさま行動を開始した。

 妻を、子供を守る為に、全速力で彼の地を目指した。

 車椅子での遠出は不自由極まりなかったが、そんなことすらもはや念頭になく、男は使命感でもって、前へと突き進んでいたのだった。

 男が到着した時、妻と子供はボートに乗り、湖の水面にいくつもの波紋を広げている最中だった。

 湖の周りには雑木林。男は車椅子から降りて、草の影に身を潜めながら辺りを見回したが、どうやら敵組織の手は、まだここまで伸びていないようだった。

 船に揺られる二つの影。久しぶりに見た女は昔とまるで変っていない。輝かしい美貌を称え、聖母のようなまなざしで我が子を見守っている。子供はまだ小さく、まん丸なほっぺを赤々と染めて、無邪気に母を見上げていた。

 男は隠れて見守っているつもりだったが、二人に会いたいという衝動が心の底から湧き上がっていた。そんな感情の揺らぎが届いたのか、不意に女と目が合った気がしたが、そんなものは気のせいだったようで、すぐに視線は男の元から外れて、宙を彷徨っていってしまう。

 気持ちが乱れていた。

 意気込んで来たものの、これでは二人を守るなんてとてもできそうにない。

 眉間を抑えて、ぎゅっとまぶたを閉じる。

 そうして高ぶりを抑えようとした瞬間であった。

 どぼん、と大きな水音がした。

 目を向けると、ボートの上には女しかいなかった。女は茫然として、空をかき抱くようにして手を伸ばした状態で硬直してしまっている。

 水面が大きく波打っている。

 足を滑らせたのか、子供が落下して、湖に吞み込まれてしまったのだ。

 男の体は自然と動き出していた。水中へと飛び込む。不思議と痛めているはずの四肢が軽い。導かれるようにまっすぐに子供の元へと辿り着くと、しっかりと子供を抱えて、男は浮上する。

 ボートの底が太陽に照らされた湖面のさざ波の中で揺れている。

 男が子供を救出して水の中から姿を現す。女は男に驚くよりも先に、子供の無事を確認して、ボートの上に引きあげた。息がある。そう聞いた男はすっかり安心して、湖の底へと沈んでいく。

 もう、一片の力も残されていなかった。

 最期に見た光景。その瞳には、微笑みを湛える女の顔だけが張り付いていた。


 湖底から回収された男はすでに絶命していた。

 男の遺体は電波塔のそばにある巨大な建物に運ばれた。

 無数のモニターで壁中が覆われた部屋の中央で、男の遺体は寝かしつけられ、無残に切り開かれると、いくつもの器具が繋がれた。

 すべての準備が完了すると、男の人生のあらゆる場面がモニターにびっしりと映し出される。

 部屋には作業員がひしめいており、モニターをじっと眺め続け、人生におけるハイライトを抜き出す作業に没頭していた。

 そうして、男の人生が切り取られ、繋ぎ合わされ、不足分が補われると、一本の映画が完成したのだった。

 重労働を終えた監督が椅子に深く腰掛けて、ふう、と息を吐いた瞬間、突然扉が開け放たれて、薄暗かった部屋にまばゆい光が差し込んで来た。

「監督! ちょっと待ってください!」

 編集室にこもり切りだった監督はまぶしそうに扉の方を見る。

「どうした?」

 かすれた声。もともと嫌な予感はしていたのだ。

「警察の方からストップの声が上がりました」

「ああ……。そうだと思ったよ。チキン野郎ども。イメージ低下を気にしやがったってわけだ。勝手に介入してきやがったくせに」

「でも、あれは、目立ちたがり屋が誘拐なんてした結果でもありますから」

「けしからんよ本当に。映画に出たいからと言って、犯罪を犯しちゃいかん」

「僕はあの女の方がよっぽと怖いですけどね」

 言われて監督は、男の妻を思い浮かべた。映画を盛り上げる為に自分の子供を湖に突き落とした女。船の上から男に救いの手を差し伸べもしなかった。

「まあ。そうだなあ。……よし。こうなったらしょうがない。切り替えていこう。今回はボツだ」

 監督の一声で、男の一生は無造作にゴミ箱に捨てられると、ボタン一つで永久に抹消されたのだった。

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