第171話 養蜂
夜の空気が地面の上に淀んで残る、冷たい野原。仄かに曲面を描く丘を、薄く頭を出した太陽に照らされながら、二つの影が横切っていく。
片方は薄いネットが垂れ下がった帽子をかぶった老人。もう一方は全身を包む宇宙服のような防護服で身を固めた男。
二人は黙々と歩き続け、色鮮やかな花畑を通り過ぎると目的の場所に到着した。
そこにはいくつもの養蜂箱が並んでおり、ブンブンと音を鳴らしながら、たくさんのミツバチたちが飛び回っていた。
老人は養蜂家であり、男はその知恵を借りにきた、いわば、飛び入りの弟子であった。
さっそく養蜂箱が開けられると、むせかえるような甘い蜜の香りと共に、何匹ものミツバチが驚いたように飛び出してきた。
「怖いかい」
老人が聞くと、男は「問題ありません」と平然と答える。
「……なら、そんな大げさな防護服じゃなくてもいいんじゃないかい? 動き難いだろう」
「これを着ているからこそ安心なのです」
男は一条の光すら通さなさそうなその防護服の胸の辺りに手を当てた。
老人は堅牢すぎるその防護服について、それ以上は何も追及せず、養蜂箱に向き直った。そうして、養蜂箱のあちこちを指差しながら、男に養蜂について指導してやった。
男は熱心に老人の話を聞き、異常な熱意がこもった態度でもって、ミツバチたちの活動を観察していた。
採蜜の手順が教えられると、次は実際に男がこの作業をやってみることになった。老人の手伝いもあり、なんとかそれを終えると、二人は一旦休憩を取ることにした。
照りつける陽の光を避けるようにして、森の入口に広がる木陰に腰を下ろす。
老人はネットのついた帽子を脱ぎ捨てて涼んでいたが、養蜂箱から大分距離があるにも関わらず、男はよほどミツバチが怖いのか、頑なに防護服を脱ごうとはしなかった。
影の中で身を休めながらも、男は老人に色々なことを聞いてきた。
「蜜を採るのは夜ではダメなんでしょうか?」
「夜? そうだなあ。蜂も寝てるだろうから。あまり驚かすのはよくないよ。早朝から朝が基本だ。そうすりゃ蜜も薄まらないし……」
「それなら夜、起きている蜂ならいいでしょうか?」
「そんなミツバチいるのかなあ。聞いたことがないけれども」
「いるんです」
男の防護服のヘルメット部分は、非常に濃い色のガラスで覆われていて、その向こうにある男の顔をうかがい知ることはできなかったが、その奥で鋭く瞳が輝いたような気がした。老人は悪寒がして、思わず目を逸らすと、遠くから近付いてくる大きな雲へと視線を向けた。
そうして、話題を変えるように話出す。
「ふうん。そういえば、どの花から蜜を集めさせるのかは決めているのかい」
「ええ。もちろん」
「ちゃんと開花時期を調べておかないといけないよ。採蜜の時期は重要だからね。基本的に花っていうのは種類が違うと開花時期や場所がずれるから、滅多に別の花の蜜が混じることはないけれど、思いがけなく百花蜜になったりすると、商売としては困るだろうから」
「いえ。個人で楽しむ程度で考えていますから。それに、一年中採取できる場所がありますので、その辺りは気にしていません」
「そんな素晴らしい場所があるのかい」
「たくさんあります。とてもたくさん」
老人はあまり深入りしないように、話を打ち切った。
そもそも、この弟子入りは、今日一日という約束で、昨日、深夜に突然やって来た男が多額の報酬を支払ったので引く受けたのだ。老人は面倒事は避けたい性質であったが、男の積んだ金はそれほど魅力的であった。
雲が太陽を隠して、辺りが、すうっ、と暗くなった頃、男は立ち上がって、老人に一礼した。
「さて。ありがとうございました。知りたかったことは全て教えて頂きました」
「ああ。いや。もういいのかい?」
「はい。では失礼します」
言って、男は森の奥の濃い影に溶けるように消え去ってしまった。老人は男の去った後をしばらくぼんやりと眺めていたが、やがて夢でも見ているような、ふらふらした足取りで家へと帰っていった
月の光の下をミツバチたちが舞い踊っている。
ミツバチたちは山の上に聳え立つ城へ飛んでいき、中庭に建てられた窓のない小屋の中に設置された養蜂箱へと帰っていく。
そこへ鋭い目付きをした男がやって来て、青白い手をスラリと伸ばすと、飛び交うミツバチの群れに無造作に踏み込んでいった。
男の周りを飛ぶミツバチたちは充血したように真っ赤な瞳をしており、口吻は牙のように尖っている。
何匹ものミツバチが男の青白い肌の上にとまったが、決して針を突き立てるようなことはしなかった。
優美な動作で養蜂箱の蓋が開けられる。その中身は黄金ではなく紅に染まり、つやつやと輝いていた。
男は長い牙を口の端から覗かせると、その紅の蜜をすくって一口味わい、歓喜の表情を浮かべた。
「素晴らしい。これからは吸血の為にわざわざ街へ行く必要がなくなった。さあ、もう一働きしてくるんだ」
男がミツバチたちに命令をする。
吸血鬼の眷属となった吸血ミツバチたちは、敬礼をするように8の字を描くと、獲物を求めて夜の街へと次々に飛んでいった。




