第17話 反発力
気づいた時にはもう奴は部屋の片隅にいた。見るだけで嫌悪感を催すような陰気臭い顔をして、何かに押しつぶされたかのようにひしゃげた人間。しかし人間と似ているのは姿形だけで、全くの別物であることを俺は知っている。奴の姿は俺以外には見えておらず、誰にも触ることはできないのだ。初めは気が変になったのかと思い病院へと通ったが、俺の頭に異常はなかった。そのうち奴のことは疫病神なのだと思うようになった。
奴はただいるだけではない。四六時中訳の分からないことを喚き散らしているのだ。止めさせようと奮闘したが触ることはできず、物を投げても奴の体をすり抜けてしまって当たらない。その内俺の意識は防御に傾き、防音の為の道具を考え始めた。
俺は生活用品を扱う会社の開発部門に勤めていた。仕事を私物化していると言われれば返す言葉もないのだが、俺にとっては切実な問題だった。奴の騒音から逃れる為にあらゆるアイデアを絞り出した。結果としては新たな商品開発に繋がり、俺は部屋での静寂を得た。
しかし平穏な日々は短く、しばらくすると奴は別の方法で嫌がらせを始めた。強烈な悪臭を放ってくるようになったのだ。これに対して俺も負けじと商品開発にのめり込んだ。画期的な消臭グッズを作り、それは大ヒット商品となった。
会社での昇進が決まり、奴に打ち勝った達成感もあって晴れやかな気分だった。だが俺は奴の執念深さを分かっていなかったのだ。奴は手を変え品を変え俺を苦しめた。電灯を明滅させて安眠妨害をしてきたり、食事を苦くされたり、虫を室内に招き入れたりと、ありとあらゆる方法で攻め立ててきた。俺はその度に仕事に打ち込み、新商品を開発して対抗した。
金銭的に余裕ができると、俺は引っ越すことにした。この家こそが呪われているのだと考えたのだ。だが何度引っ越しても奴は俺のいる場所に現れた。いつの間にか部屋の隅にいて、にたにたと厭らしい笑みを顔面いっぱいに湛えているだ。
俺はどうすればこの疫病神から離れられるのかということだけを考え続けた。家以外で奴が現れることはなかったから、自然と会社にいる時間が増えていった。仕事は順調だったし、部下からも慕われており、仕事している間は奴のことを忘れられた。
やっと奴の存在が俺の中で薄れ始めて来た頃、恋人ができた。当然逃れようのない問題が発生した。奴のことを説明などできなかった。正気を疑われるのはごめんだった。
家庭も持つには絶対に家が必要だ。俺は苦肉の策として彼女の家に居候させてもらうことにした。自分の家でなければ奴も寄り付かないのではないかと淡い期待を抱いていたのだ。しかしそんな甘い考えはすぐさま打ち砕かれることになった。彼女の部屋の隅に奴が現れた。彼女と二人でいる空間に奴がいるということが耐えがたい苦痛となって俺に襲い掛かって来た。
彼女とはすぐに別れることになった。俺は彼女の事を忘れようと、より一層仕事に励んだ。海外赴任を申し出て世界中を飛び回った。海外までは奴も追ってこないかもしれないと思ったが、どんな場所であっても奴は部屋の隅にいつの間にかいるのだった。
俺はがむしゃらに働いてホテルを転々とする生活を始めた。一カ所に留まらずに働き続けたことで人脈は広がり、会社での業績は上がる一方だった。
気づけば俺は社長の地位まで上り詰めていた。社長になってからも奴からは追い立てられ、仕事だけが逃げ道となっていた。
俺は億万長者になった。各地に愛人がいて、何人もの子供がいる。社員や友人たちとの関係も良好だ。もはや政府にさえ働きかけることができた。
誰もが俺のことを、望む者全てを手に入れた男だ言った。しかし誰も俺の本当の望みを知りもしなかったのだ。金や、金で得られるものなど欲しくはなかった。ただ安住の地だけを渇望しているのだ。