第144話 死神
「やめてくれっ! たのむっ!」
男が死神の足元に這いつくばって、縋りつくようにして懇願していた。死神は電球のような瞳をピカピカと輝かせて、大きな鎌をもたげながら、闇のようなローブから冷酷な顔を覗かせる。そこには男が発した言葉への興味など一片たりともなかった。
それでも男は必死になって言葉を紡ぎ続けた。
「今すぐなのか? 突然すぎる。なあ、頼む。もう少しだけ。ほんのちょっとでいいんだ」
泣き出さんばかりの悲痛な訴えにも、死神の表情には一切の揺らぎがなかった。ノイズ混じりのしゃがれ声で、無感情な最後の通告が言い渡される。
「だめだ。もう連れて行かなければならない。一刻の猶予もない。今すぐに死んでもらう」
男の目から押し止められていた涙が一気に溢れだした。もはや言葉にもなっていない声を漏らし、鼻水を垂れ流しながら、駄々をこねる子供のように手足を振り乱した。
「隣の部屋のやつの方が今にも死にかけじゃないか。あっちが先じゃないのか。あっちにしよう。なあ。俺の方なんて後回しでも構わないだろう。なんとか言ってくれよ。…そうだ。お金。お金を払うよ。お金で解決しよう。そうしようよ」
矢継ぎ早に話し続けて、咄嗟に飛び出た提案であったが、意外にも死神の興味を惹いたようだった。
「いくらなら出せるんだ」
これには男も虚を突かれたようで、自分の全財産を思いうかべて、いくらが妥当な値段なのかと、こんな瀬戸際であるにも関わらず真剣に考え込んだ。
ややあって男は金額を提示したが、死神を満足させるには十分ではなかった。
「足りないな」
と、死神は切り捨てるように言って、鎌を振り上げる。
「分かった。もう少し出そう」
金額が上乗せされたが、死神はそれでも納得しなかった。男はとにかく時間稼ぎに更なる提案をしようとしたが、死神はもう待ってはくれなかった。
無情にも鎌は振り下ろされ、ひとつの命を一瞬で刈り取った。
死神が去った後、部屋の中では男がさめざめと泣いていた。
「クソッ! あの強欲死神め。あれ以上出したら、新品が買えるじゃないか。あと、もうちょっとでバックアップが完了したのに!」
うんともすんとも言わなくなってしまったパソコンを前に、男はそこにしまい込まれていた重要なデータの数々を思って涙した。
そんな人間の都合などはどこ吹く風で、機械の死神は電球のような瞳をピカピカと輝かせながら、次の機械に死の宣告を行うべく、のそりのそりと街を行くのであった。