第131話 第二の人格
俺は精神科医だ。いわゆる多重人格の患者を扱っているが、困ったことが起きた。俺は、彼女に恋をしてしまったのだ。彼女は正確には患者ではない。患者である彼女の別人格、本来の人格ではない第二の人格だ。その人格を好きになってしまったのだ。
患者は自覚症状のない女性で、親に連れられてやってきた。こうして本人の気づかない内に別人格が形成されるということは稀にあることだ。俺は患者にショックを与えないように、ただのメンタルケアと称して治療を施していたが、その裏で、第二人格の彼女との逢瀬を楽しみにもしていた。
医者として恣意的な感情に流されてはいけないということは理解していたが、俺に彼女を消し去ることなどできなかった。もう彼女に会えなくなる。そう考えただけで心が引き裂かれそうだった。さんざん悩んでいるうちに、俺の心は千々に乱れ、相反する心がぶつかり合って、増幅された衝動は止められないほどに高まっていった。気づけば俺は、発作的に彼女へと告白をしていた。
彼女でない彼女。第二の人格である彼女は、思いがけない愛の告白に耳を疑い、ややあって頬を仄かに赤らめると、思いを受け入れてくれた。俺の心は歓喜と後悔の間で揺れたが、それもすぐに幸福感で塗りつぶされた。
俺たちは愛を育む夢を共に見て、語り合った。しかし、未来を思う時、常に彼女の本来の人格が邪魔になるのだった。だから、俺たちは彼女を消し去る計画を立てた。
これは殺人ではない。むしろ彼女の体にふさわしいのは第二人格の方だ。俺はそう思い込むことにした。手段を選ばないのであれば、主人格だけを消し去ることは可能であった。最近開発された薬品を組み合わせて、主人格の意識を膨張させて四散させるのだ。
今は第二人格に据えられている彼女の協力もあり、事はスムーズに運んだ。計画は実行に移され、開けられた主人格の席には彼女が座ることになった。
俺たちは幸せだった。郊外の土地に家を買って、逃避行した恋人たちのように、誰にも会わず、静かに時を過ごした。俺たちは深く深く愛し合った、しかし、こんな閉じきった殻の中の蜜月は予想もしていなかった最期を迎えることとなってしまった。
彼女の浮気だ。彼女の俺への愛は、いつの間にか別の男に注がれていたのだ。そいつは俺ではない俺。俺の第二の人格だった。
いつ、どこで、そんなものが生まれたのか、俺に自覚はなかった。しかし、以前の彼女自身と同じく自覚症状がなかったと考えるしかない。それに、心に大きな影響が出るぐらいに悩み抜いた覚えなら確かにあった。しかし、そんな原因など今はどうでもいいだろう。全ては手遅れ。今、まさに、かつて俺が行ったのと同じ方法で、主人格である俺自身が消されようとしているのだ。
薬の効果で意識が膨張して、その内と外の境界線、輪郭が曖昧になっていく。俺はほどけて、溶けるようにして消えていく。その時、バラバラに崩れゆく俺の心の断片が、ひとつの塊になって離れていくのを感じた。薬を使われたものにしか分からない、副作用とでもいうべき効果のようだ。俺は霧散する間近、僅かに残っていた精神科医としての冷静さでそれを分析していた。
俺は憎んだ。そして憎しみをその塊に託した。この憎しみを糧にして、あれは新たな人格となり、きっと、どんな手段を使ってでも復讐を果たしてくれるだろう。今更になって、消してしまった彼女の主人格に対する罪悪感が湧き上がってくる。彼女も消える瞬間、今の俺と同じような憎しみを抱いたかもしれない、そんな考えがふと思い浮かんだ。




