第105話 上っ面
男は走っていた。恋人との待ち合わせに間に合うかどうかの瀬戸際だったのだ。足を動かし続けながら、時計と睨めっこしていると、ふと横道にある空き地が目に入った。横切ると大通りはすぐ目の前で、大幅な時間短縮になりそうだった。男は喜び勇んで空き地に飛び込んでいった。
空き地は何十年も放置されていたかのような雑草の生い茂り様で、腰の辺りまで濃く伸びた植物を掻き分けながら男は進んだ。空き地の中ほどまで来た時、何かに足を取られて、男は顔面から地面に激突した。
痛みで顔を手で押さえて立ち上がろうとしたが、妙な感触に男は身を震わせた。目も、鼻も、口も、何もかもなくなっていて、そこにはつるりとした卵のような顔があるばかりだ。何度探しても、そこにあるべき筈のものは見つからなかった。男の視界は真っ暗になっており、土や草の匂いもせず、声を出すこともできない。かろうじて耳は残っていたが、これではさながら、のっぺらぼうであった。口がない所為か息苦しくなってきて、男は喉をかきむしるようにして狂乱した。膝から崩れ落ちて地面のあちこちを滅茶苦茶に手探りすると、その指先に何かが触れた。確信があった訳ではなかったが、それは触り慣れた皮膚の感触のように思えた。男はそれを引っ掴むと、自分の顔に押し付けた。
すると、次の瞬間には突然夢から覚めたように、目、鼻、口が戻って来ていた。
男は走り出した。急いで空き地を抜けて、大通りへと飛び出した。人混みに紛れると気持ちが落ち着いてきて、待ち合わせのことを思い出した。男は先程の悪夢を忘れて、日常へとしがみつこうとするように恋人の元へ向かった。
恋人は待ちくたびれており、男が声を掛けると、その眼差しには激しい怒気が込められていた。しかし、目と目が合った瞬間、困惑の表情に塗り替えれてしまった。男が弁解の言葉を吐き出す度に、恋人の顔には深い戸惑いが刻み込まれていく。男も流石に妙に思って、恋人から視線を外して、参ったというように頭に手を置いたが、その時、そぐそばにある服飾店のショーウィンドウが視界に入った。ショーウィンドウと男を隔てる硝子。それはつややかに周りの様子を反射して、半透明の鏡のようになっている。そこに映る男の顔、それは見たこともない他人の顔であった。
男は「あっ」と叫んで顔を手で覆った。恋人の瞳は恐怖に染まっている。男はふらふらとその場を離れ、人混みの中に呑み込まれた。足はどこへいくともなく彷徨い続ける。周りの様子は見えているのに、再び目の前が真っ暗になってしまったようであった。そうして気がついた時にはあの空き地へと立ち戻っていた。
導かれるようにして空き地の中央へ歩みを進める。その辺りの地面だけは不思議と雑草が避けているようであった。あごを少しずつ引いて、ゆっくりと地面を覗き込む。すると、そこには無数の顔が蠢いていた。地獄の底から響いているかのような声があちこちから湧き上がる。男は地に伏して、自分の顔を求めて、顔の群れへと手を伸ばした。
俺を置いて体だけがどこかへ行ってしまった時には絶望に打ちひしがれていたが、戻ってきたのでホッと息を吐いた。しかし体は俺を見つけることができず、的外れな顔ばかりを手にとっては、投げ捨てている。「こっちだ!」と何度も叫ぶが、肌にびりびりと響いてくる他の顔の怨嗟の声にかき消されてしまっている。体は一向に俺に気づく気配もなく、見当はずれの場所を探し続けている。
体の後ろから近づく影があった。それが誰なのか、俺はすぐに分かった。見間違う訳がない。俺の恋人なのだから。おそらく体を追いかけてきたのだろう。彼女も体と同様に俺に気がつかず、俺のそばを通り過ぎようとしている。なんとか気を惹こうとして足に噛みつくと、彼女はドスンと転んでしまった。その拍子に顔が剥がれて、俺のすぐ隣に落ちてきた。
横目で見ると、彼女と俺の目が合った。俺はその顔に見惚れ、彼女もまた熱っぽい視線を送ってきた。俺たちは寄り添った。そうして慌てふためく体たちをよそに、幸せな時間を共に過ごすのだった。




