第1030話 明治のくちなし男
おれは物言わぬ鞘。
口を持たない、くちなし男。
廃刀令で魂を失い、士族などというお飾りの身分で、現世を彷徨う亡霊。
――鯉を切りたい、虎に攻め入りたい。
そんな想いは、時代にそぐわぬ。
闘争心は行き場を失い、虚しく膨らむハリボテだ。
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ザンギリ頭の洋服小僧が、文明開化の色を振りまく。カンカン帽を浅めに被り、履くのはつやめく革靴だ。
おれは断髪令の時分から、髷を守って、履くのは草履、着るのは袴。
わざと肩肘張りながら、負けじと横をすれ違うが、独り相撲もいいところ。
厭な奴にもなれずじまいで、相手は前だけ見据えている。
なんだか、がっくり気落ちして、トボトボ歩いていたならば、豆腐屋の前で妻に会った。
店内を覗いていた妻は、おれに気がつくと、
「あら。あなた」
瞳をくるくるさせながら、トタトタと駆け寄ってきて、「荷物を持って」と、箱を押しつける。飾り気のない包装。縦横高さはいずれも一尺ほどで、かなり軽い。
なにかと思っていると、おれの視線から疑問を読み取ったらしく、
「新しい風呂桶を買ったのよ」
なるほど。風呂好きの妻らしい買い物。
夫に荷物を持たせるなど、武士の妻としてあるまじき行為だが、くちなしのおれには、もはや文句の句の字もない。
黙っていると、妻はのべつまくなし喋くりながら、おれの腕を引いていく。
豆腐は見ていただけで、買うつもりはなかったとのこと。妻からすれば、豆腐屋も観魚室もたいして変わりはしないらしい。
よく舌が絡まらないものだと、関心してしまうぐらいに、妻はおれに今日の体験を語りに語る。
新しいものが次々に生れ落ちる様が楽しくて仕方がないらしい。
おれは、その下で押し潰されて、埋もれて、苦しみ喘ぎ、死に絶える、古いものたちのことを思うと、とてもじゃないが、妻のようには振る舞えぬ。
以前は貞淑であったのに、時代が妻を変えたのか。しかし、昔ながらの職人気質の大工だと思っていた妻の父も、いまでは鳶を捨て烏という具合だから、そういう血筋なのかもしれない。
ふらふらどこへいくのやら。
身を任せていると、到着したのは暖簾ではないか。
潜ると酒の香りが漂い、檜の机がお出迎え。
妻は、夕飯を作るのが面倒だからと言いながら、席について早々、日本酒の熱燗を注文。ふたりぶん。それからいくつかのつまみ。
華やかな徳利と小皿。
猪を持ち上げたが、酌はない。
妻は品よく飲み干して、つまみもそこそこにまた喋る。
くちから先に生まれてきたとは、まさしくこのこと。話のほうが、よほど酒の肴になっていそうだ。品があれば、くちみっつ。女三人寄ればなんとやら。
すきっ腹が満たされた頃、暖簾を跨ぐ茜に目を向け、そろそろ家が恋しくなる。
妻も同じくだったらしく、席を立つと、蝦蟇を開いた。
支払いを終えて、帰路へ。
夕闇迫る細い道。
牛鍋屋にたむろする人々。西洋は胃袋からして、人々の心を掴もうとしているのだろうか。
影が伸びる先に、引っ張られるみたいにして、妻は近所の寺院に足を向けた。
石段をのぼって、鳥居を潜る。
他の参拝客はいない。神仏分離令の影響だろうか。廃刀令で魂を失った、おれと同じく、がらんどうの境内だ。
手水舎に寄り、龍の蛇が垂れ流す水を、柄杓で掬う。
手を清めているあいだだけ、風呂桶の箱を妻が代わって持ってくれた。
大工の娘だけあって、寺院の意匠についてあれやこれやと詳しく語る。
雀に巣を作るスズメを興味深げに眺めると、妻はきまぐれな足取りで、本殿へと参った。
獅子を見上げ、賽銭を投げて、鰐を打つ。
おれは、ぼーん、と。
妻は、こつん、と。
そうして、手を合わせた妻が、不意に、
「あなたがおおぐち開けていられますように」
間抜けな願いだと思っていると、
「変なお願いだと思ったでしょ」
なんだ、我が妻には神通力でも具わっているのか。
ぎょっ、とするおれに、妻はころころと笑って、
「心を読まれたかと思った? そんなわけはないでしょ。あなたの目を見ていればわかるのよ。目はくちほどに物を言う、ってこと」
逸らした視線の先を追ってきて、妻は「帰りましょう」と、おれの腕を引いた。
石段をくだりながら、
「居酒屋さんでも、品はあるのにくちやかましいな、って思っていたでしょう?」
やかましい、とまでは考えていなかったはず。
「あなたは鞘じゃなくて”うつわ”」
草鞋の鼻緒がすこし解けている。
足元を気にしていると、妻が歩を緩めて、
「器っていうのはね。くちがよっつで、おおきいものなのよ」




